よ。旅の芸人のようじゃない、まあきいてごらんなさればわかる、今夜は太平記《たいへいき》ですなんて、そんなことをしきりと言っていましたよ。」
「まあ、おれはいい。」
「きょうはどうなすったか。」
「どうも心が動いてしかたがない。囲炉裏《いろり》ばたへ来て、今すわって見たところだ。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
 尾州藩主を見送ってから九日も降り続いた雨がまだあがらなかった。藩主が通行前に植え付けの済んだ村の青田の方では蛙《かわず》の声を聞くころだ。天保《てんぽう》二年の五月に生まれて、生みの母の覚えもない半蔵には、ことさら五月雨《さみだれ》のふるころの季節の感じが深い。
「お民、おれのお母《っか》さんが亡《な》くなってから、三十三年になるよ。」
 と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞《めぐ》りに繞ったような名のつけようのない憂鬱《ゆううつ》がまた彼に帰って来る。
 お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。
「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」
 お民が奥の部
前へ 次へ
全434ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング