方へも、山間《やまあい》に部落のある方へも飛んで行った。ちょうど田植えも始まっているころだ。大領主の通行と聞いては、男も女も田圃《たんぼ》に出て、いずれも植え付けを急ごうとした。
木曾地方の人民が待ち受けている尾州藩の当主は名を茂徳《もちのり》という。六十一万九千五百石を領するこの大名は御隠居(慶勝《よしかつ》)の世嗣《よつぎ》にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の大森林もまたこの人の保護の下にある。
当時、将軍は上洛《じょうらく》中で、後見職|一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》をはじめ、会津藩主松平|容保《かたもり》なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。例の約束の期日までに、もし満足な答えが得られないなら、艦隊の威力によっても目的を達するに必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤《みとよしあつ》と共にその守備に当たっていたのだ。
しかし、尾州藩の位置を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前《えちぜん》も手を引き
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