、薩摩《さつま》も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜《さくそう》していたことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙《あいたいじ》する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿《くげ》たちを異《こと》にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥《なるせまさみつ》のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢《いせ》、熱田《あつた》の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦《ぼうぎょ》に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御
前へ
次へ
全434ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング