》にも胆《きも》が身に添わなかったほどでありながら、いったん浪士らが金沢藩に降《くだ》ったと見ると、虎の威を借りて刑戮《けいりく》をほしいままにするとはなんという卑怯《ひきょう》さだと。しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采《ふうさい》の人で、天狗連《てんぐれん》追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖《こんぺいとう》を席にまき、そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮《けいりく》をあえてさせたのだと言うものも出て来た。
 千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには八百二十三人だけしか生き残らなかった。そのうちの三百五十三名が前後五日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬《き》られた。耕雲斎ら四人の首級は首桶《くびおけ》に納められ、塩詰めとされたが、その他のものは三|間《げん》四方の五つの土穴の中へ投げ込まれた。残る二百五十名は遠島を申し付けられ、百八十名の雑兵歩人らと、数名の婦人と、十五名の少年とが無構《む
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