は種々《さまざま》な風評が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞こえて来た。現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。しかし半蔵はそれを穿《うが》ち過ぎた説だとして、伯耆《ほうき》から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺《すわらいがくじ》の和尚《おしょう》なぞの置いて行った話の方を信じたかった。いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、敦賀|本勝寺《ほんしょうじ》の書院に耕雲斎らを見に行って胸がふさがったという永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。
田沼侯に対する世間の非難の声も高い。水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人|塩原彦七《しおばらひこしち》ですらそれを言って、幕府の若年寄《わかどしより》ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たないことも久しいと言って、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。浪士らの勢いのさかんな時は二十里ずつの距離の外に屏息《へいそく》し、徐行|逗留《とうりゅう》してあえて近づこうともせず、いわゆる風声鶴唳《ふうせいかくれい
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