ょし》にあたる浜田《はまだ》、島原《しまばら》、喜連川《きつれがわ》の三侯も、武田らのために朝廷と幕府とへ嘆願書を差し出し、因州、備前《びぜん》の二侯も、浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》だ。田沼侯は筑波以来の顛末《てんまつ》を奏して処置したいとの考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。ところが朝廷では田沼侯の入京お差し止めとある。怒《おこ》るまいことか、田沼侯は朝廷が幕府を辱《はず》かしめるもはなはだしいとして、兵権政権は幕府に存するととなえ、あだかも一橋慶喜なぞは眼中にもないかのように、その足で引き返して敦賀《つるが》に向かった。正月の二十六日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、二十八日には武田以下浪士全員の引き取りを言い渡した。この総督は、市川三左衛門らの進言に耳を傾け、慶喜が武田ら死罪赦免の儀を朝廷より御沙汰《ごさた》あるよう尽力中であると聞いて、にわかに浪士の処刑を急いだという。
 加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命《いのち》を助けることができなかったか。それにつき、世間に
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