馬籠峠を通った。伊那|助郷《すけごう》が五百人も出た日の後には、須原《すはら》通しの人足五千人の備えを要するほどの勅使通行の日が続いた。
この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顛末《てんまつ》がいろいろな形で世上に流布《るふ》するようになった。これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。宍戸侯《ししどこう》(松平|大炊頭《おおいのかみ》)の悲惨な最期を序幕とする水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。
いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道《なかせんどう》を通過し、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、それを自身に関係ある事だとして直ちに江州路《ごうしゅうじ》へ出張し鎮撫《ちんぶ》に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。朝議もそれを容《い》れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原《おだわら》、会津《あいづ》、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢が今庄《いまじょう》に到着したので、諸藩
前へ
次へ
全434ページ中274ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング