ったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧《えいらん》のなかったのに、初めて淀川《よどがわ》の滔々《とうとう》と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思《おぼ》し召され、外夷《がいい》親征なぞの御艱難《ごかんなん》はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体《りゅうたい》を危うくされ給《たも》うまいと慮《おもんぱか》らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿《ししんでん》の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認《したた》めてある。
 聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田《いいだ》の在から京都に出ている松尾|多勢子《たせこ》(平田|鉄胤《かねたね》門人)のような近い親戚《しんせき》の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想《おも》い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際
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