。石清水《いわしみず》は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝《みかど》にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある公卿《くげ》たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため洛外《らくがい》に鳳輦《ほうれん》を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保《まつだいらかたもり》も忌服《きぶく》とあって、名代《みょうだい》の横山|常徳《つねのり》が当日の供奉《ぐぶ》警衛に当たった。景蔵に言わせると、当時、鱗形屋《うろこがたや》の定飛脚《じょうびきゃく》から出たものとして諸方に伝わった聞書《ききがき》なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、
「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。一橋《ひとつばし》様御名代のところ、攘夷《じょうい》の節刀を賜わる段にてお遁《に》げ。」
とある。この「お遁《に》げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあ
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