人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
美濃《みの》の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士らが清内路《せいないじ》から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。北原稲雄兄弟をはじめ、浪士らの間道通過に斡旋《あっせん》した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。景蔵や香蔵が訪《たず》ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様《かずのみやさま》御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。
「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう。」
香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居《すまい》の門口から声をか
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