た。この混雑の中で、十五、六軒ばかりの土蔵が切り破られた。だれの所業《しわざ》ともわからないような盗みが行なわれた。浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。
暁《あけ》の六つ時《どき》には浪士は残らず下諏訪を出立した。平出宿《ひらでしゅく》小休み、岡谷《おかや》昼飯の予定で。あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、陣羽織のままで大八車《だいはちぐるま》を押して行くのもある。甲冑《かっちゅう》も着ないで馬に乗って行くのもある。負傷兵を戸板で運ぶのもある。もはや、大霜《おおしも》だ。天もまさに寒かった。
二
もとより浪士らは後方へ引き返すべくもない。幕府から回された討手《うって》の田沼勢は絶えず後ろから追って来るとの報知《しらせ》もある。千余人からの長い行列は前後を警戒しながら伊那の谷に続いた。
筑波《つくば》の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真《ま》に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭《はたごせん》一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。ある
前へ
次へ
全434ページ中188ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング