である。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
筑波の空に揚がった高い烽火《のろし》は西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いに振《ふる》ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中《あんどうろうじゅう》要撃の以前にも当たる。東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。
湊《みなと》を出て西に向かった水戸浪士は、石神村《いしがみむら》を通過して、久慈郡大子村《くじごおりだいごむら》をさして進んだが、討手《うって》の軍勢もそれをささえることはできなかった。それから月折峠《つきおれとうげ》に一戦し、那須《なす》の雲巌寺《うんがんじ》に宿泊して、上州路に向かった。
この一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学
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