おわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧《はいかい》の道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越《かわごえ》で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲《かよく》と商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾《のれん》も畳《たた》まねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋《わらじ》ばき尻端折《しりはしょ》りになって「おすみ団子《だんご》」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫《おっと》を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気《けなげ》な婦人だ。
 そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のお粂《くめ》を思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行く
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