曾地方にはない。それをしなければ小前《こまえ》のものが安心して農業家業に従事し得られないというほどのことはない。半蔵が二人の連れのように、これまでたびたび江戸に出たことのある庄屋たちでも、こんな油断のならない道中は初めてだと言っている。どうして些細《ささい》のことにも気を配って、互いに助け合うことなしに踏んで出て来られる八十里の道ではなかったのだ。
さしあたり一行三人のものの仕事は、当時の道中奉行|都筑駿河守《つづきするがのかみ》が役宅を訪《たず》ね、今度総代として来たことを告げ、木曾宿々から取りそろえて来た人馬立辻帳《じんばたてつじちょう》なぞを差し出すことであった。
言うまでもなく、その帳簿には過ぐる一年間の人馬徴発の総高が計算してある。最初に半蔵らが奉行の屋敷に出た日には、徒士目付《かちめつけ》が応接に出て、奉行へは自分から諸事取り次ぐであろうとの話があった末に、今度三人の庄屋を呼び出した奉行の意向を言い聞かせた。それには諸大名が江戸への参覲交代をもう一度復活したい徳川現内閣の方針であることを言い聞かせた。徒士目付の口ぶりによると、いずれ奉行から改めてお呼び出しがあるであろう、そのおりは木曾地方における人馬|継立《つぎた》ての現状を問いただされるであろう、そんなことで半蔵らは引き取って来た。同行の幸兵衛、平助、共に半蔵から見ればずっと年の違った人たちで、宿駅のことにも経験の多い庄屋たちであるが、三人連れだって両国の旅籠屋《はたごや》まで戻《もど》って来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の成り行きに額《ひたい》を鳩《あつ》めた。
参覲交代制度変革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国もとをさして引き揚げて行ったあとの町々は、あだかも大きな潮の引いて行ったあとのようになった。
二度目に来てこの大きな都会の深さにはいって見る半蔵の目には、もはや江戸城もない。過ぐる文久三年十一月十五日の火災で、本丸、西丸、共に炎上した。将軍家ですら田安御殿《たやすごてん》の方に移り住むと聞くころだ。西丸だけは復興の工事中であるが、それすら幕府御勘定所のやり繰りで、諸国の町人百姓から上納した百両二百両のまとまった金はもとより、一朱二朱ずつの細かい金まではいっている御普請上納金より成り立つことは、半蔵のように地方にいていくらかでも上納金の世話を命ぜられたものにわかる。西丸の復興ですらこのとおりだ。本丸の方の再度の造営はもとより困難と見られている。朝日夕日に輝いて八百八町《はっぴゃくやちょう》を支配するようにそびえ立っていたあの建築物も、周囲に松の緑の配置してあった高い白壁も、特色のあった窓々も、幕府大城の壮観はとうとうその美を失ってしまった。言って見れば、ここは広大な城下町である。大小の武家屋敷、すなわち上《かみ》屋敷、中《なか》屋敷、下《しも》屋敷、御用屋敷、小屋敷、百人組その他の組々の住宅など、皆大城を中心にしてあるようなものである、変革はこの封建都市に持ち来たされた。諸大名は国勝手を許され、その家族の多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのようである。
しかし、あの制度の廃止は文久の改革の結果だ。あれは時代の趨勢《すうせい》に着眼して幕政改革の意見を抱《いだ》いた諸国の大名や識者なぞの間に早くから考えられて来たことだ。もっと政治は明るくして新鮮な空気を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居九門の警衛は撤去されるというふうに、多くの繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が改められた時、幕府が大改革の眼目として惜しげもなく投げ出したのも参覲交代の旧《ふる》い慣例だ。もともと徳川氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前《えちぜん》の松平春嶽《まつだいらしゅんがく》から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対するものが多かったというが、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は越前藩主の意見をいれ、多くの反対説を排して、改革の英断に出た。今さらあの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡《きんり》守衛総督摂海|防禦《ぼうぎょ》指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすにもひとしい。遠くは紀州と一橋との将軍継嗣問題以来、苦しい反目を続けて来た幕府の内部は、ここにもその内訌《ないこう》の消息を語っていた。
それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を復活して、幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》しうるか、どうかは、半
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