蔵なぞのように下から見上げるものにすら疑問であった。時節がら、無用な費用を省いて、兵力を充実し、海岸を防禦《ぼうぎょ》するために国に就《つ》いた諸大名が、はたして幕府の言うなりになって、もう一度江戸への道を踏むか、どうかも疑問であった。
 諸大名の家族が江戸屋敷から解き放たれた日、あれは半蔵が父吉左衛門から家督を譲られて、新しい駅長の職に就いてまだ間もなかったころにあたる。彼はあの馬籠の宿場の方で、越前の女中方や、尾州の若殿に簾中《れんちゅう》や、紀州の奥方ならびに女中方なぞを迎えたり送ったりしたいそがしさをまだ忘れずにいる。昨日は秋田の姫君が峠の上に着いたとか、今日は肥前島原の女中方が着いたとか、こういう婦人や子供の一行が毎日のようにあの街道に続いた。まるで人質も同様にこもり暮らした江戸から手足の鎖を解かれたようにして、歓呼の声を揚げて行った屋敷方の人々だ。それらの御隠居、奥方、若様、女中衆なぞが江戸をにぎわそうとして、もう一度この都会に帰り来る日のあるか、どうかは、なおなお疑問であった。
 江戸に出て数日の間、半蔵は連れの庄屋と共に道中奉行から呼び出される日を待った。一行三人のものは思い思いに出歩いた。そして両国の旅籠屋《はたごや》をさして帰って行くたびに、互いに見たり聞いたりして来る町々の話を持ち寄った。江戸にある木曾福島の代官山村氏の屋敷を東片町《ひがしかたまち》に訪《たず》ねたが、あの辺の屋敷町もさみしかったと言うのは幸兵衛だ。木曾の領主にあたる尾州侯の屋敷へも顔出しに行って来て、いたるところの町々に「かしや」の札の出ているのが目についたと言うのは平助だ。両国から親父橋《おやじばし》まで歩いて、当時江戸での最も繁華な場所とされている芳町《よしちょう》のごちゃごちゃとした通りをあの橋の畔《たもと》に出ると、芋《いも》の煮込みで名高い居酒屋には人だかりがして、その反対の町角《まちかど》にある大きな口入宿《くちいれやど》には何百人もの職を求める人が詰めかけていたと言うのは半蔵だ。
 十一屋の隠居は半蔵らを宿へ迎え入れるたびに言った。
「皆さんは町へお出かけになりましても、日暮れまでには両国へお帰りください。なるべく夜分はお出ましにならない方がよろしゅうございますぞ。」


 ようやく道中奉行からの差紙《さしがみ》で、三人の庄屋の出頭する日が来た。十一屋の二階で、半蔵は連れと同じように旅の合羽《かっぱ》をぬいで、国から用意して来た麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》に着かえた。
「さあ、これから御奉行さまの前だ。」と贄川《にえがわ》の平助は用心深い目つきをしながら、半蔵の袖《そで》をひいた。「きょうは、うっかりした口はきけませんよ。半蔵さんはまだ若いから、何か言い出しそうで心配です。」
「わたしですか。わたしは平素《ふだん》から黙っていたい方ですから、そんなよけいなことはしゃべりませんよ。」
 その時、福島の幸兵衛も庄屋らしい袴《はかま》の紐《ひも》を結んでいたが、半分|串談《じょうだん》のような調子で、
「半蔵さんは平田の御門人だと言うから、余分に目をつけられますぜ。」
 と戯れた。
「いえ。」と半蔵は言った。「わたしは馬籠をたつ時に、家のものからもそんなことを言われて来ましたよ。でも、木曾十一宿の総代で呼び出されるものをつかまえて、まさか入牢《にゅうろう》を申し付けるとも言いますまい。」
 幸兵衛も平助も笑った。三人ともしたくができた。そこで出かけた。
 道中奉行|都筑駿河《つづきするが》の役宅は神田橋《かんだばし》外にある。そこには例の徒士目付《かちめつけ》が待ち受けていてくれて、やがて三人は二|部屋《へや》続いた広間に通された。旧暦六月のことで、襖《ふすま》障子《しょうじ》なぞも取りはずしてあった。正面に奉行、そのそばに道中|下方掛《したかたがか》りの役人らが控え、徒士目付はいろいろとその間を斡旋《あっせん》した。そこへ新たに道中奉行の一人《ひとり》となった神保佐渡《じんぼうさど》もはいって来て、席に着いた。
[#地から17字上げ]尾張殿領分
[#地から8字上げ]東山道贄川宿、外《ほか》十か宿総代
[#地から14字上げ]組合宿々取締役
[#地から13字上げ]右贄川宿庄屋
[#地から7字上げ]遠山平助
[#地から14字上げ]福島宿庄屋
[#地から7字上げ]堤幸兵衛
[#地から10字上げ]馬籠宿庄屋本陣問屋
[#地から7字上げ]青山半蔵
 徒士目付は三人の庄屋を奉行に紹介するようにそれを読み上げる。平助も、幸兵衛も、それから半蔵も扇子を前に置き、各自の名前が読まれるたびに両手を軽く畳の上に置いて、順に挨拶《あいさつ》した。
 都筑駿河はかつて勘
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