夜明け前
第一部下
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)王滝《おうたき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本陣|問屋《といや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/稾」、18−3]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そも/\
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第八章
一
「もう半蔵も王滝《おうたき》から帰りそうなものだぞ。」
吉左衛門《きちざえもん》は隠居の身ながら、忰《せがれ》半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ馬籠《まごめ》本陣の裏二階を降りた。彼の習慣として、ちょっとそこいらを見回りに行くにも質素な平袴《ひらばかま》ぐらいは着けた。それに下男の佐吉が手造りにした藁草履《わらぞうり》をはき、病後はとかく半身の回復もおそかったところから杖《つえ》を手放せなかった。
そういう吉左衛門も、代を跡目《あとめ》相続の半蔵に譲り、庄屋《しょうや》本陣|問屋《といや》の三役を退いてから、半年の余になる。前の年、文久《ぶんきゅう》二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路《きそじ》を通過した長州侯《ちょうしゅうこう》をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪《すわ》に三日も逗留《とうりゅう》を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂[#「大坂」は底本では「大阪」]、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹《はしか》が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の除《よ》けようもないと聞いては、年寄役の伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰《せがれ》の留守に問屋場《といやば》の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
当時、将軍|家茂《いえもち》は京都の方へ行ったぎりいまだに還御《かんぎょ》のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々《さまざま》な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋《もや》の方へ向いた。
「やあ、例幣使《れいへいし》さま。」
母屋の囲炉裏《いろり》ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳《ぜん》に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、正己《まさみ》は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして御飯《おまんま》を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも草鞋《わらじ》ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。
「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい。」
と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集まっているものは皆笑った。
吉左衛門の孫たちも大きくなった。お粂《くめ》は八歳、宗太は六歳、三番目の正己が三歳にもなる。どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上るかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。道中で人足《にんそく》をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の大嵐《おおあらし》にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。公卿《くげ》、大僧正《だいそうじょう》をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が金《きん》の御幣を奉じてねり込んで来て、最近にこの馬籠の宿でも二十両からの祝儀金《しゅうぎきん》をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵が王滝の方へ行っている留守の時だった。
吉左衛門は広い
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