炉ばたから寛《くつろ》ぎの間《ま》の方へ行って見た。そこは半蔵が清助を相手に庄屋《しょうや》本陣の事務を見る部屋《へや》にあててある。
「万事は半蔵の量見一つでやるがいい――おれはもう一切、口を出すまいから。」
これは吉左衛門が退役の当時に半蔵に残した言葉で、隠居してからもその心に変わりはなかった。今さら、彼は家のことに口を出すつもりは毛頭《もうとう》なかった。ただ、半蔵の仕事部屋を見回るだけに満足した。
店座敷の方へも行って見た。以前の大火に枯れた老樹の跡へは、枝ぶりのおもしろい松の樹《き》が山から移し植えられ、白い大きな蕾《つぼみ》を持つ牡丹《ぼたん》がまた焼け跡から新しい芽を吹き出している。半蔵の好きなものだ。「松《まつ》が枝《え》」とは、その庭の植樹《うえき》から思いついて、半蔵が自分の歌稿の題としているくらいだ。しかしそれらの庭にあるものよりも、店座敷の床の間に積み重ねてある書物が吉左衛門の目についた。そこには本居《もとおり》派や平田派の古学に関したいろいろな本が置いてある。あの平田|篤胤《あつたね》と同郷で、その影響を受けたとも言われる佐藤信淵《さとうのぶひろ》が勧農に関する著述なぞも置いてある。
吉左衛門はひとり言って見た。
「これだ。相変わらず半蔵はこういう方に凝っていると見えるなあ。」
まだ朝のうちのことで、毎日手伝いに通《かよ》って来る清助も顔を見せない。吉左衛門はその足で母屋《もや》の入り口から表庭を通って、門の外に出て見た。早く馬籠を立つ上り下りの旅人以外には、街道を通る人もまだそれほど多くない。宿場の活動は道路を清潔にすることから始められるような時であった。
将軍の上洛《じょうらく》以来、この街道を通行する諸大名諸公役なぞの警衛もにわかに厳重になった。その年の日光例幣使は高百五十石の公卿《くげ》であるが、八|挺《ちょう》の鉄砲を先に立て、二頭の騎馬に護《まも》られて、おりからの強雨の中を発《た》って行ったといううわさを残した。公儀より一頭、水戸藩《みとはん》より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あとになってそれが尾州藩よりの警衛とわかった。皇室と徳川|霊廟《れいびょう》とを結びつけるはずの使者が、公武合体の役には立たないで、あべこべにそれをぶち壊《こわ》して歩くのもあの一行だった。さすがに憎まれ者の例幣使のことで、八挺の鉄砲と二頭の騎馬とで、その身を護《まも》ることを考えねばならなくなったのだ。
毎月上半期を半蔵の家の方で、下半期を九太夫《くだゆう》方で交替に開く問屋場《といやば》は、ちょうどこちらの順番に当たっていた。吉左衛門の足はその方へ向いた。そこには書役《かきやく》という形で新たにはいった亀屋栄吉《かめやえいきち》が早く出勤していて、小使いの男と二人《ふたり》でそこいらを片づけている。栄吉は吉左衛門が実家を相続しているもので、吉左衛門の甥《おい》にあたり、半蔵とは従兄弟《いとこ》同志の間柄にあたる。問屋としての半蔵の仕事を手伝わせるために、わざわざ吉左衛門が見立てたのもこの栄吉だ。
「叔父《おじ》さん、早いじゃありませんか。」
「あゝ。もう半蔵も帰りそうなものだと思って、ちょっとそこいらを見回りに来たよ。だいぶ荷もたまってるようだね。」
「それですか。それは福島行きの荷です。けさはまだ峠の牛が降りて来ません。」
栄吉は問屋場の御改《おあらた》め所《じょ》になっている小さい高台のところへ来て、その上に手を置き、吉左衛門はまたその前の羽目板《はめいた》に身を寄せ、蹴込《けこ》みのところに立ったままで、敷居の上と下とで言葉をかわしていた。吉左衛門のつもりでは、退職後の問屋の帳面にも一応は目を通し、半蔵の勤めぶりに安心の行くかどうかを確かめて、青山親子が職業に怠りのあるとは言われたくないためであった。でも、彼はすぐにそんなことを言い出しかねて、栄吉の方から言い出すいろいろな問屋場の近況に耳を傾けていた。
「大旦那《おおだんな》、店座敷(ここは宿役人の詰め所をさす)の方でお茶を一つお上がり。まだ役人衆はどなたも見えていませんから。」
と小使いの男が言う。吉左衛門はそれをきッかけに、砂利《じゃり》で堅めた土間を通って、宿役人の詰め所の上がり端《はな》の方へ行って腰掛けた。そこは会所と呼んでいるところで、伏見屋、桝田屋《ますだや》、蓬莱屋《ほうらいや》、梅屋とこの四人の年寄役のほかに、今一軒の問屋|九郎兵衛《くろべえ》なぞが事あるごとに相談に集まる場所だ。吉左衛門はその上がり端のところに杖《つえ》を置いて、腰掛けたままで茶を飲んだ。それから甥《おい》の方へ声をかけた。
「栄吉、問屋場の帳面をここへ見せてくれないか。ちょっとおれは調べたいことがある。」
その時、栄吉は助郷《す
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