けごう》の人馬数を書き上げた|日〆帳《ひじめちょう》なぞをそこへ取り出して来た。吉左衛門も隠居の身で、駅路のことに口を出そうでもない。ただ彼はその大切な帳簿を繰って見て、半蔵の認《したた》め方に目を通すというだけに満足した。
「叔父《おじ》さん、街道の風儀も悪くなって来ましたね。」と栄吉は言って見せる。「なんでもこの節は力ずくで行こうとする。こないだも九太夫さんの家の方へ来て、人足の出し方がおそいと言って、問屋場であばれた侍がありましたぜ。ひどいやつもあるものですね。その侍は土足のままで、問屋場の台の上へ飛びあがりましたぜ。そこに九郎兵衛さんがいました。あの人も見ていられませんから、いきなりその侍を台の上から突き落としたそうです。さあ、怒《おこ》るまいことか、先方《さき》は刀に手を掛けるから、九郎兵衛さんがあの大きなからだでそこへ飛びおりて、斬《き》れるものなら斬って見るがいいと言ったそうですよ。ちょうど表には大名の駕籠《かご》が待っていました。大名は騒ぎを聞きつけて、ようやくその侍を取りしずめたそうですがね。どうして、この節は油断ができません。」
「そう言えば、十万石につき一人《ひとり》ずつとか、諸藩の武士が京都の方へ勤めるようになったと聞くが、真実《ほんとう》だろうか。」
「その話はわたしも聞きました。」
「参覲交代《さんきんこうたい》の御変革以来だよ。あの御変革は、どこまで及んで行くか見当がつかない。」
こんな話をしたあとで、吉左衛門は思わず時を送ったというふうに腰を持ちあげた。問屋場からの出がけにも、彼は出入り口の障子の開いたところから板廂《いたびさし》のかげを通して、心深げに旧暦四月の街道の空をながめた。そして栄吉の方を顧みて言った。
「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。」
吉左衛門の心配は、半蔵が親友の二人《ふたり》までも京都の方へ飛び出して行ったことであった。あの中津川本陣の景蔵や、新問屋|和泉屋《いずみや》の香蔵のあとを追って、もし半蔵が家出をするような日を迎えたら。その懸念《けねん》から、年老いた吉左衛門は思い沈みながら、やがて自分の隠居所の方へ非常に静かに歩いて行った。彼がその裏二階に上るころには、おまんも母屋《もや》の方から夫《おっと》を見に来た。
「いや、朝のうちは問屋場も静かさ。栄吉が出勤しているだけで、まだ役人衆はだれも見えなかった。」
吉左衛門はおまんの見ているところで袴《はかま》の紐《ひも》を解いて、先代の隠居半六の時代からある古い襖《ふすま》の前を歩き回った。先年の馬籠《まごめ》の大火にもその隠居所は焼け残って、筆者不明の大書をはりつけた襖の文字も吉左衛門には慰みの一つとなっている。
「もうそれでも半蔵も帰って来ていいころだぞ。」と彼は妻に言った。「この節は街道がごたごたして来て、栄吉も心配している。町ではいろいろなことを言う人があるようだね。」
「半蔵のことですか。」とおまんも夫の顔をながめる。
「あれは本陣の日記なぞを欠かさずつけているだろうか。」
「さあ。わたしもそれで気がついたことがありますよ。あれの日記が机の上にありましたから、あけるつもりもなくあけて見ました。あなたがよく本陣の日記をつけたように、半蔵も家を引き受けた当座は、だれが福島から来て泊まったとか、お材木方を湯舟沢へ御案内したとか、そういうことが細かくつけてありましたよ。だんだんあとの方になると、お天気のことしか書いてない日があります。晴。曇。晴。曇。そんな日の七日も八日も続いたところがありましたっけ。」
「それだ。無器用に生まれついて来たのは性分《しょうぶん》でしかたがないとしても、もうすこしあれには経済の才をくれたい。」
茶のみ友だちともいうべき夫婦は、古風な煙草盆《たばこぼん》を間に置いて、いろいろと子の前途を心配し出した。その時、おまんは長い羅宇《らお》の煙管《きせる》で一服吸いつけて、
「こないだからわたしも言おう言おうと思っていましたが、半蔵のうわさを聞いて見ると残念でなりません。あの金兵衛さんなぞですら、馬籠の本陣や問屋が半蔵に勤まるかッて、そう思って見ているようですよ。」
「そりゃ、お前、それくらいのことはおれだって考える。だから清助さんというものを入れ、栄吉にも来てもらって、清助さんには庄屋と本陣、栄吉には問屋の仕事を手伝わせるようにしたさ。あの二人がついてるもの、これが普通の時世なら、半蔵にだって勤まらんことはない。」
「えゝ、そりゃそうです――土台ができているんですから。」
「あのお友だちを見てもわかる。中津川の本陣の子息《むすこ》に、新問屋の和泉屋の子息――二人とも本陣や問屋の仕事をお
前へ
次へ
全109ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング