。
この庄屋たちは江戸の道中奉行《どうちゅうぶぎょう》から呼び出されて、いずれも木曾十一宿の総代として来たのである。その中に半蔵も加わっていた。もっとも、木曾の上四宿からは贄川《にえがわ》の庄屋、中三宿からは福島の庄屋で、馬籠《まごめ》から来た半蔵は下四宿の総代としてであった。
五月下旬に半蔵は郷里の方をたって来たが、こんなふうに再び江戸を見うる日のあろうとは、彼としても思いがけないことであった。両国の十一屋は彼にはすでになじみの旅籠屋である。他の二人《ふたり》の庄屋――福島の幸兵衛《こうべえ》、贄川《にえがわ》の平助、この人たちも半蔵と一緒にひとまずその旅籠屋に落ちつくことを便宜とした。そこには木曾出身で世話好きな十一屋の隠居のような人があるからで。
「早いものでございますな。あれから、もう十年近くもなりますかな。」
十一屋の隠居は半蔵のそばに来て、旅籠屋の亭主《ていしゅ》らしいことを言い出す。この隠居は十年近くも前に来て泊まった木曾の客を忘れずにいた。半蔵が江戸から横須賀《よこすか》在へかけての以前の旅の連れは妻籠《つまご》本陣の寿平次であったことまでよく覚えていた。
「そりゃ、十一屋さん、この前にわたしたちが出て来ました時は、まだ横浜開港以前でしたものね。」
「さよう、さよう、」と隠居も思い出したように、「あれから宮川寛斎先生も手前どもへお泊まりくださいましたよ。えゝ、お連れさまは中津川の万屋《よろずや》さんたちで。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は神奈川《かながわ》の牡丹屋《ぼたんや》へも手前どもから御案内いたしましたっけ。毎度皆さまにはごひいきにしてくださいまして、ありがとうございます。」
そういう隠居も大分《だいぶ》年をとったが、しかし元気は相変わらずだ。この宿屋には隠居に見比べると親子ほど年の違うかみさんもある。親子かと思えば、どうもそうでもないようだし、夫婦にしては年が違いすぎる。そう半蔵も以前の旅には想《おも》って見たが、今度江戸へ出て来た時は、そのかみさんが隠居の子供を抱いていた。
見るもの聞くもの半蔵には過ぐる年の旅の記憶をよび起こした。あれは安政三年で、半蔵が平田入門を思い立って来たころだ。彼が江戸に出て、初めて平田|鉄胤《かねたね》を知り、その子息《むすこ》さんの延胤《のぶたね》をも知ったころだ。当時の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めてのイギリスの船がはいったと聞くも胸をおどらせたくらいのころだ。なんと言ってもあのころの徳川政府の威信はまだまだ全国を圧していた。
十年近い月日はいかに半蔵の周囲を変え、今度踏んで来た街道の光景までも変えたことか。道中奉行からのお呼び出しで、半蔵も自分の宿場を離れて来て見ると、あの木曾街道筋の堅めとして聞こえた福島の関所あたりからして、えらいあわて方であった。諸国に頻発《ひんぱつ》する暴動ざたが幕府を驚かしてか、宿村の取り締まりも実に厳重をきわめるようになった。半蔵が国を出るころは、街道に怪しいものは見つけ次第注進せよと言われていた。ひとり旅の者はもちろん、怪しい浪人体のものは休息させまじき事、俳諧師《はいかいし》生花師《いけばなし》等の無用の遊歴は差し置くまじき事、そればかりでなく、狼藉者《ろうぜきもの》があったら村内打ち寄って取り押え、万一手にあまる場合は切り捨てても鉄砲で打ち殺しても苦しくないというような、そんな御用達所からのお書付が宿々村々へ渡っていた。
江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追分宿《おいわけじゅく》の名主《なぬし》文太夫《ぶんだゆう》の家へも寄って来た。あの地方では取締役なるものができ、村民は七名ずつ交替で御影《みかげ》の陣屋を護《まも》り、強賊や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講ずるというほどの騒ぎだ。その陣屋には新たに百二十間あまりの柵矢来《さくやらい》が造りつけられ、非常時の合図として村々には半鐘、太鼓、板木が用意され、それに鉄砲、竹鎗《たけやり》、袖《そで》がらみ、六尺棒、松明《たいまつ》なぞを備え置くという。村内のものでも長脇差《ながわきざし》を帯びるか、または無宿者《むしゅくもの》を隠し泊めるかするものがあればきびしく取り締まるようになって、毎月五日には各村民が陣屋に参集するという。この申し合わせに加わる村々は、北佐久《きたさく》、南佐久の方面で七十四か村にも及んでいる。いかに生活難に追い詰められた無宿浮浪の群れが浪人のまねをしたり大刀を帯びたりしてあの辺の街道を押し歩いているかがわかる。追分《おいわけ》、軽井沢《かるいざわ》あたりは長脇差の本場に近いところから、ことに騒がしい。それにしても、村民各自に自警団を組織するほどのぎょうぎょうしいことはまだ木
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