。」
「そう言えば、吉左衛門さん、あなたにお目にかかると、この節は食べる物の話ばかり出るじゃありませんか。」
 この人たちのにぎやかな笑い声を聞きながら、半蔵は寿平次の隣にいて膳《ぜん》に就《つ》いた。酒は隣家の伏見屋から取り寄せたもの。山家風な手打ち蕎麦《そば》の薬味には、葱《ねぎ》、唐《とう》がらし。皿《さら》の上に小鳥。それに蝋茸《ろうじ》のおろしあえ。漬《つ》け物。赤大根。おまんが自慢の梅酢漬《うめずづ》けの芋茎《ずいき》。


「半蔵さん、正己が養子縁組のことはどうしたものでしょう。」
 と寿平次がたずねた。一晩馬籠に泊まった翌朝のことである。
「そいつはあとでもいいじゃありませんか。」と半蔵は答えた。「まあ、なんということなしに、連れて行ってごらんなさるさ。」
 そこへおまんとお民も来て一緒になった。おまんは寿平次を見て、
「正己はあれで、もうなんでも食べますよ。酢茎《すぐき》のようなものまで食べたがって困るくらいですよ。妻籠のおばあさんはよく御承知だろうが、あんまり着せ過ぎてもいけない。なんでも子供は寒く饑《ひも》じく育てるものだって、昔からよくそう言いますよ。」
「兄さん、正己も当分は慣れますまいから、おたけを付けてあげますよ。」とお民も言い添えた。
 おたけとは、正己が乳母《うば》のようにしてめんどうを見た女の名である。お粂《くめ》でも、宗太でも、一人ずつ子供の世話をするものを付けて養育するのが、この家族の習慣のようになっていたからで。
 すでに妻籠の方からも迎えの男がやって来た。馬籠本陣の囲炉裏ばたには幼いものの門出を祝う日が来た。お民は裏道づたいに峠の上まで見送ると言って、お粂や宗太を連れて行くしたくをした。こういう時に、清助は黙ってみていなかった。
「さあ、正己さま、おいで。」
 と言って、妻籠へ行く子を自分の背中に載せた。それほど清助は腰が低かった。
 吉左衛門、おまん、栄吉、勝重、それに佐吉から二人の下女までが半蔵と一緒に門の外に集まった。狭い土地のことで、ちいさな子供一人の出発も近所じゅうのうわさに上った。本陣の向こうの梅屋、一軒上の問屋、街道をへだてて問屋と対《むか》い合った伏見屋、それらの家々の前にもだれかしら人が出て妻籠行きのものを見送っていた。
 半蔵は父や継母の前に立って言った。
「寿平次さんの家で育ててもらえば、安心です。正己も仕合わせです。」
 やがて寿平次らは離れて行った。半蔵はそのまま自分の家にはいろうとしなかった。その足で坂になった町を下の方へと取り、石屋の坂の角《かど》を曲がり、幾層にもなっている傾斜の地勢について、荒町《あらまち》の方まで降りて行った。荒町には村社|諏訪《すわ》分社がある。その氏神への参詣《さんけい》を済ましても、まだ彼は家の方へ引き返す気にならなかった。この宿場で狸《たぬき》の膏薬《こうやく》なぞを売るのも、そこを出はずれたところだ。路傍には大きく黒ずんだ岩石がはい出して来ていて、広い美濃《みの》の盆地の眺望《ちょうぼう》は谷の下の方にひらけている。もはや恵那山《えなさん》の連峰へも一度雪が来て、また溶けて行った。その大きな傾斜の望まれるところまで歩いて行って見ると、彼は胸いっぱいの声を揚げて叫びたい気になった。
 寿平次が残して置いて行ったいろいろな言葉は、まだ彼の胸から離れなかった。大概の事をばかにしてひとり弓でもひいていられる寿平次に比べると、彼は日常生活の安逸をむさぼっていられなかったのだ。やがて近づいて来る庚申講《こうしんこう》の夜、これから五か月もの長さにわたって続いて行く山家の寒さ、石を載せた板屋根でも吹きめくる風と雪――人を眠らせにやって来るようなそれらの冬の感じが、破って出たくも容易に出られない一切の現状のやるせなさにまじって、彼の胸におおいかぶさって来ていた。
 しかし、歩けば歩くほど、彼は気の晴れる子供のようになって、さらに西の宿はずれの新茶屋の方へと街道の土を踏んで行った。そこには天保十四年のころに、あの金兵衛が亡父の供養にと言って、木曾路を通る旅人のために街道に近い位置を選んで建てた芭蕉《ばしょう》の句碑もある。とうとう、彼は信濃《しなの》と美濃の国境《くにざかい》にあたる一里塚《いちりづか》まで、そこにこんもりとした常磐木《ときわぎ》らしい全景を見せている静かな榎《え》の木の下まで歩いた。
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     第九章

       一

 江戸の町々では元治《げんじ》元年の六月を迎えた。木曾街道《きそかいどう》方面よりの入り口とも言うべき板橋から、巣鴨《すがも》の立場《たてば》、本郷《ほんごう》森川宿なぞを通り過ぎて、両国《りょうごく》の旅籠屋《はたごや》十一屋に旅の草鞋《わらじ》をぬいだ三人の木曾の庄屋《しょうや》がある
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