さ。それを聞いた時は、わたしもギョッとしましたね。ほんとに――あんな少年がですよ。」
 二人《ふたり》の話はそこへはいって行った子供らのために途切れた。
「どうだ、正己。」と寿平次は子供をそばへ呼び寄せて、「叔父《おじ》さんと一緒に、妻籠へ行くかい。」
「行く。」
「行くはよかった。」と半蔵が笑う。
「どれ、叔父さんが一つ抱いて見てやろうか。」
 と言って、寿平次が正己を抱き上げると、そばに見ていた宗太も同じように抱かれに行った。
「叔父さん、わたしも。」
 お粂までもそれを言って、寿平次が弟の子供たちにしてやったと同じことを姉娘にもしてやるまではそばを離れなかった。
「よ。これは重い。」
 寿平次はさも重そうに言って、あとから抱き上げた姉娘の小さなからだを畳の上におろした。
「お粂はよい娘になりそうですね。」と寿平次は末頼もしそうに半蔵に言って見せた。「祖母《おばあ》さんのお仕込みと見えて、どこか違う。君たち夫婦はこんな娘があるからいいさ。わたしは実に家庭には恵まれない。」
 その時、半蔵は子供らを見て言った。「みんな、祖母《おばあ》さんの方へ行ってごらん。台所で蕎麦《そば》を打ってるから、見に行ってごらん。」
 東南に向いた店座敷の障子には次第に日が影《かげ》って来た。半蔵の家では、おまんの計らいで、吉左衛門が老友の金兵衛をも招いて、妻籠へ行く子を送る前の晩のわざとのしるしばかりに、新蕎麦で一杯振る舞いたいという。夕飯にはまだすこし間があった。その静かさの中で、寿平次は半蔵と二人ぎりさしむかいにすわっていた。裏二階の方であった吉左衛門との話なぞがそこへ持ち出された。
「や、寿平次さんに見せるものがある。」
 半蔵は部屋《へや》の押し入れの中から四巻ばかりの本を取り出して来て、
「これがわたしたちの仕事の一つです。」
 と寿平次の前に置いた。『古史伝』の第二|帙《ちつ》だ。江戸の方で、彫板、印刷、製本等の工程を終わって、新たにでき上がって来たものだ。
「これはなかなか立派な本ができましたね。」と寿平次は手に取って見て、「この上木《じょうぼく》の趣意書には、お歴々の名前も並んでいますね。前島|正弼《しょうすけ》、片桐春一《かたぎりしゅんいち》、北原|信質《のぶただ》、岩崎|長世《ながよ》、原|信好《のぶよし》か。ホウ、中津川の宮川寛斎《みやがわかんさい》もやはり発起人の一人《ひとり》とありますね。」
「どうです、平田先生の本は木板が鮮明で、読みいいでしょう。」
「たしかに特色が出ていますね。」
「この第一|帙《ちつ》の方は伊那《いな》の門人の出資で、今度できたのは甲州の門人の出資です。いずれ、わたしも阿爺《おやじ》と相談して、この上木の費用を助けるつもりです。」
「半蔵さん、今じゃ平田先生の著述というものはひろく読まれるそうじゃありませんか。こういう君たちの仕事はいい。ただ、わたしの心配することは、半蔵さんがあまり人を信じ過ぎるからです。君はなんでも信じ過ぎる。」
「寿平次さんの言うことはよくわかりますがね、信じてかかるというのが平田門人のよいところじゃありませんか。」
「信を第一とす、ですか。」
「その精神をヌキにしたら、本居《もとおり》や平田の古学というものはわかりませんよ。」
「そういうこともありましょうが、なんというか、こう、君は信じ過ぎるような気がする――師匠でも、友人でも。」
「……」
「そいつは、気をつけないといけませんぜ。」
「……」
「そう言えば、半蔵さん、京都の方へ行ってる景蔵さんや香蔵さんもどうしていましょう。よくあんなに中津川の家を留守にして置かれると思うと、わたしは驚きます。」
「それはわたしも思いますよ。」
「半蔵さんも、京都の方へ行って見る気が起こるんですかね。」
「さあ、この節わたしはよく京都の友だちの夢を見ます。あんな夢を見るところから思うと、わたしの心は半分京都の方へ行ってるのかもしれません。」
「お父《とっ》さんもそれで心配していますぜ。さっき、裏の二階でお父さんと二人《ふたり》ぎりになった時にも、いろいろそのお話が出ました。何もお父さんのようにそう黙っていることはない。半蔵さんとわたしの仲で、これくらいのことの言えないはずはない。そう思って、わたしはあの二階から降りて来ました。」
「いや、あの阿爺《おやじ》がなかったら、とッくにわたしは家を飛び出していましょうよ……」
 下女が夕飯のしたくのできたことを知らせるころは、二人はもうこんな話をしなかった。半蔵が寿平次を寛《くつろ》ぎの間《ま》へ案内して行って見ると、吉左衛門は裏二階から、金兵衛は上の伏見屋の方からそこに集まって来ていた。
「どうだ、寿平次、金兵衛さんはことし六十七におなりなさる。おれより二つ上だ。それにしてはずいぶん御達者さね
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