かった。とうとう、尾州藩主は老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》が意見をいれ、同じ留守役の水戸|慶篤《よしあつ》とも謀《はか》って、財政困難な幕府としては血の出るような十万ポンドの償金をイギリス政府に払ってしまった。五月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行が木曾路の東ざかい桜沢に達すると、そこはもう藩主の領地の入り口である。時節がら、厳重な警戒で、護衛の武士、足軽《あしがる》、仲間《ちゅうげん》から小道具なぞの供の衆まで入れると二千人からの同勢がその領地を通って、かねて触れ書の回してある十三日には馬籠の宿はずれに着いた。
おりよく雨のあがった日であった。駅長としての半蔵は、父の時代と同じように、伊之助、九郎兵衛、小左衛門、五助などの宿役人を従え、いずれも定紋《じょうもん》付きの麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》で、この一行を出迎えた。道路の入り口にはすでに盛り砂が用意され、竹籠《たけかご》に厚紙を張った消防用の水桶《みずおけ》は本陣の門前に据《す》え置かれ、玄関のところには二張《ふたはり》の幕も張り回された。坂になった馬籠の町は金の葵《あおい》の紋のついた挾箱《はさみばこ》、長い柄《え》の日傘《ひがさ》、鉄砲、箪笥《たんす》、長持《ながもち》、その他の諸道具で時ならぬ光景を呈した。鉾《ほこ》の先を飾る大鳥毛の黒、三間鎗《さんげんやり》の大刀打《たちうち》に光る金なぞはことに大藩の威厳を見せ、黒の絹羽織《きぬばおり》を着た小人衆《こびとしゅう》はその間を往《い》ったり来たりした。普通御通行のお定めと言えば、二十万石以上の藩主は馬十五|疋《ひき》ないし二十疋、人足百二、三十人、仲間二百五十人ないし三百人とされていたが、尾張領分の村々から藩主を迎えに来た人足だけでも二千人からの人数がこの宿場にあふれた。
東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠《とりいとうげ》あたりをその実際の中央にして、それから十五里あまり西寄りのところに馬籠の宿があるが、大体に十一宿を引きくるめて中央の位置と見ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻《しおじり》、和田、碓氷《うすい》の四つの峠を越えねばならないのに引きかえ、美濃《みの》方面の平野は馬籠の西の宿はずれから目の下にひらけているの相違だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便《たよ》りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることができる。一行の中の用人らがこの峠の上の位置まで来て、しきりに西の方の様子を聞きたがるのに不思議はなかった。
その日の藩主は中津川泊まりで、午後の八つ時ごろにはお小休みだけで馬籠を通過した。
「下に。下に。」
西へと動いて行く杖払《つえはら》いの声だ。その声は、石屋の坂あたりから荒町《あらまち》の方へと高く響けて行った。路傍《みちばた》に群れ集まる物見高い男や女はいずれも大領主を見送ろうとして、土の上にひざまずいていた。
半蔵も目の回るようないそがしい時を送った。西の宿はずれに藩主の一行を見送って置いて、群衆の間を通りぬけながら、また自分の家へと引き返して来た。その時、御跡改《おあとあらた》めの徒士目付《かちめつけ》の口からもれた言葉で、半蔵は尾州藩主が江戸から上って来た今度の旅の意味を知った。
徒士目付は藩主がお小休みの礼を述べ、不時の人馬賃銭を払い、何も不都合の筋はなかったかなぞと尋ねた上で立ち去った。半蔵は跡片づけにごたごたする家のなかのさまをながめながら、しばらくそこに立ち尽くした。藩主|入洛《じゅらく》の報知《しらせ》が京都へ伝わる日のことを想《おも》って見た。藩主が名古屋まで到着する日にすら、強い反対派の議論が一藩の内に沸きあがりそうに思えた。まして熾《さか》んな敵愾心《てきがいしん》で燃えているような京都の空気の中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都へ、はたして藩主が飛び込んで行かれるか、どうかは、それすら実に疑問であった。
やかましい問題の償金はすでにイギリスへ払われたのだ。そのことを告げ知らせるために、半蔵はだれよりも先に父の吉左衛門を探《さが》した。こういう時のきまりで、出入りの百姓は男も女も手伝いとして本陣に集まって来ている。半蔵はその間を分けて、お民を見つけるときき、清助をつかまえるときいた。
「お父《とっ》さんは?」
馬籠の本陣親子が尾州家との縁故も深い。ことに吉左衛門はその庄屋時代に、財政困難な尾州藩の仕法立てに多年尽力したかどで、三回にもわたって、一度
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