、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。
「半蔵さん、村方へはどうしましょう。」
 と従兄弟《いとこ》の栄吉が問屋場から半蔵を探《さが》しに来た。
「尾張《おわり》領分の村々からは、人足が二千人も出て、福島詰め野尻《のじり》詰めで殿様を迎えに来ると言いますから、継立《つぎた》てにはそう困りますまいが。」とまた栄吉が言い添える。
「まあ、村じゅう総がかりでやるんだね。」と半蔵は答えた。
「御通行前に、田圃《たんぼ》の仕事を片づけろッて、百姓一同に言い渡しましょうか。」
「そうしてください。」
 そこへ清助も来て一緒になった。清助はこの宿場に木曾の大領主を迎える日取りを数えて見て、
「十三日と言えば、もうあと六日しかありませんぞ。」
 村では、飼蚕《かいこ》の取り込みの中で菖蒲《しょうぶ》の節句を迎え、一年に一度の粽《ちまき》なぞを祝ったばかりのころであった。やがて組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》をはじめ、五人組の重立ったものがそれぞれ手分けをして、来たる十三日のことを触れるために近い谷の方へも、山間《やまあい》に部落のある方へも飛んで行った。ちょうど田植えも始まっているころだ。大領主の通行と聞いては、男も女も田圃《たんぼ》に出て、いずれも植え付けを急ごうとした。


 木曾地方の人民が待ち受けている尾州藩の当主は名を茂徳《もちのり》という。六十一万九千五百石を領するこの大名は御隠居(慶勝《よしかつ》)の世嗣《よつぎ》にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の大森林もまたこの人の保護の下にある。
 当時、将軍は上洛《じょうらく》中で、後見職|一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》をはじめ、会津藩主松平|容保《かたもり》なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。例の約束の期日までに、もし満足な答えが得られないなら、艦隊の威力によっても目的を達するに必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤《みとよしあつ》と共にその守備に当たっていたのだ。
 しかし、尾州藩の位置を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前《えちぜん》も手を引き、薩摩《さつま》も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜《さくそう》していたことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙《あいたいじ》する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿《くげ》たちを異《こと》にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥《なるせまさみつ》のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢《いせ》、熱田《あつた》の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦《ぼうぎょ》に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
 不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として知られた田宮如雲《たみやじょうん》以下の人たちが多く賞賜せられたようなことは、藩主たる茂徳《もちのり》のあずかり知らないくらいであった。もともと御隠居は安政大獄の当時、井伊大老に反対して幽閉せられた閲歴を持つ人で、『神祇宝典《じんぎほうてん》』や『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』なぞを選んだ源敬公の遺志をつぎ、つとに尊王の志を抱《いだ》いたのであった。徳川御三家の一つではありながら、必ずしも幕府の外交に追随する人ではなかった。この御隠居側に対外硬を主張する人たちがあれば、藩主側には攘夷を非とする人たちがあった。尾州に名高い金鉄組とは、法外なイギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見に絶対に反対した。もし無謀の戦《いくさ》を開くにおいては、徳川家の盛衰浮沈にかかわるばかりでない、万一にもこの国の誇りを傷つけられたら世界万国に対して汚名を流さねばならない、天下万民の永世のことをも考えよと主張したのである。
 外人殺傷の代償も大き
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