》を加うべきはずに候えども、大樹《たいじゅ》(家茂)においてはいまだ若年《じゃくねん》の儀にて、諸事奸吏どもの腹中より出《い》で候おもむき相聞こえ、格別寛大の沙汰《さた》をもって、しばらく宥恕《ゆうじょ》いたし候につき、速《すみや》かに姦徒《かんと》の罪状を糺明《きゅうめい》し、厳刑を加うべし。もし遅緩に及び候わば旬日を出《い》でずして、ことごとく天誅《てんちゅう》を加うべきものなり。」
  亥《い》四月十七日[#地から2字上げ]天下義士
[#ここで字下げ終わり]
 この驚くべき張り紙――おそらく決死の覚悟をもって書かれたようなこの張り紙の発見されたことは、将軍家をして攘夷期限の公布を決意せしめるほどの力があったということを景蔵は書いてよこした。イギリスとの戦争は避けられないかもしれないとある。自分はもとより対外硬の意見で、時局がここまで切迫して来ては攘夷の実行もやむを得まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と称する人たちの多いにはうんざりする、ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。
 日ごろ、へりくだった心の持ち主で、付和雷同なぞをいさぎよしとしない景蔵ですらこれだ。この京都便りを読んだ半蔵にはいろいろなことが想像された。同じ革新潮流の渦《うず》の中にあるとは言っても、そこには幾多の不純なもののあることが想像された。その不純を容《い》れながらも、尊王の旗を高くかかげて進んで行こうとしているらしい友だちの姿が半蔵の目に浮かぶ。
「どうだ、青山君。今の時は、一人《ひとり》でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか。」
 この友だちの声を半蔵は耳の底に聞きつける思いをした。


 京都から出た定飛脚《じょうびきゃく》の聞書《ききがき》として、来たる五月の十日を期する攘夷の布告がいよいよ家茂の名で公《おおやけ》にされたことが、この街道筋まで伝えられたのは、それから間もなくであった。
 こういう中で、いろいろな用事が半蔵の身辺に集まって来た。参覲交代制度の変革に伴い定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願に関する件がその一つであった。これは宿々《しゅくじゅく》二十五人、二十五|疋《ひき》の常備御伝馬以外に、人馬を補充し、継立《つぎた》てを応援する定員の公役を設けることであって、この方法によると常備人馬でも応じきれない時に定助郷の応援を求め、定助郷が出てもまだ足りないような大通行の場合にかぎり加助郷《かすけごう》の応援を求めるのであるが、これまで木曾地方の街道筋にはその組織も充分にそなわっていなかった。それには木曾十一宿のうち、上《かみ》四宿、中《なか》三宿、下《しも》四宿から都合四、五人の総代を立て、御変革以来の地方の事情を江戸にある道中奉行所につぶさに上申し、東海道方面の例にならって、これはどうしても助郷の組織を改良すべき時機であることを陳述し、それには定助郷を勤むるものに限り高掛《たかかか》り物《もの》(金納、米納、その他労役をもってする一種の戸数割)の免除を願い、そして課役に応ずる百姓の立場をはっきりさせ、同時に街道の混乱を防ぎ止めねばならぬ、そのことに十一宿の意見が一致したのであった。もしこの定助郷設置の嘆願が道中奉行に容《い》れられなかったら、お定めの二十五人、二十五|疋《ひき》以外には継立《つぎた》てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたいとの申し合わせもしてあった。馬籠の宿では年寄役|蓬莱屋《ほうらいや》の新七がその総代の一人に選ばれた。吉左衛門、金兵衛はすでに隠居し、九太夫も退き、伏見屋では伊之助、問屋では九郎兵衛、その他の宿役人を数えて見ても年寄役の桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》は父儀助に代わり、同役梅屋五助は父|与次衛門《よじえもん》に代わって、もはや古株《ふるかぶ》で現役に踏みとどまっているものは蓬莱屋新七一人しか残っていなかったのである。新七は江戸表をさして出発するばかりに、そのしたくをととのえて、それから半蔵のところへ庄屋としての調印を求めに来た。
 五月の七日を迎えるころには、馬籠の会所に集まる宿役人らはさしあたりこの定助郷の設けのない不自由さを互いに語り合った。なぜかなら、にわかな触《ふ》れ書《しょ》の到来で、江戸守備の任にある尾州藩の当主が京都をさして木曾路を通過することを知ったからで。
「なんのための御上京か。」
 と半蔵は考えて、来たる十三日のころにはこの宿場に迎えねばならない大きな通行の意味を切迫した時局に結びつけて見た。その月の八日はかねて幕府が問題の生麦《なまむぎ》事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり
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