の景蔵は、半蔵から見れば兄のような人だった。割合に年齢《とし》の近い香蔵に比べると、この人から受け取る手紙は文句からして落ち着いている。その便《たよ》りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった石清水行幸《いわしみずぎょうこう》の日のことがその中に報じてある。
 景蔵の手紙はなかなかこまかい。それによると、今度の行幸については種々《さまざま》な風説が起こったとある。国事寄人《こくじよりうど》として活動していた侍従中山|忠光《ただみつ》は官位を朝廷に返上し、長州に脱走して毛利真斎《もうりしんさい》と称し、志士を糾合《きゅうごう》して鳳輦《ほうれん》を途中に奪い奉る計画があるというような、そんな風説も伝わったとある。その流言に対して会津《あいづ》方からでも出たものか、八幡《はちまん》の行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に苦々《にがにが》しいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん、町人百姓までこの行幸のために尽力守衛せよというような張り紙を三条大橋の擬宝珠《ぎぼし》に張りつけたものがあって、役所の門前で早速《さっそく》その張り紙は焼き捨てられたという。石清水《いわしみず》は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝《みかど》にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある公卿《くげ》たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため洛外《らくがい》に鳳輦《ほうれん》を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保《まつだいらかたもり》も忌服《きぶく》とあって、名代《みょうだい》の横山|常徳《つねのり》が当日の供奉《ぐぶ》警衛に当たった。景蔵に言わせると、当時、鱗形屋《うろこがたや》の定飛脚《じょうびきゃく》から出たものとして諸方に伝わった聞書《ききがき》なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、
「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。一橋《ひとつばし》様御名代のところ、攘夷《じょうい》の節刀を賜わる段にてお遁《に》げ。」
 とある。この「お遁《に》げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧《えいらん》のなかったのに、初めて淀川《よどがわ》の滔々《とうとう》と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思《おぼ》し召され、外夷《がいい》親征なぞの御艱難《ごかんなん》はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体《りゅうたい》を危うくされ給《たも》うまいと慮《おもんぱか》らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿《ししんでん》の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認《したた》めてある。
 聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田《いいだ》の在から京都に出ている松尾|多勢子《たせこ》(平田|鉄胤《かねたね》門人)のような近い親戚《しんせき》の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想《おも》い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の橋詰《はしづ》めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。
[#地から7字上げ]徳川家茂
[#ここから1字下げ]
「右は、先ごろ上洛《じょうらく》後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候《そうろう》ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終|虚喝《きょかつ》を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷《がいい》拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞《えいぶん》を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出《い》づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病《けびょう》を構え、一橋中納言《ひとつばしちゅうなごん》においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守《いたくらすおうのかみ》、岡部駿河守《おかべするがのかみ》らをはじめ奸吏《かんり》ども数多くこれありて、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》、安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》らの遺志をつぎ、賄賂《わいろ》をもって種々|奸謀《かんぼう》を行ない、実《じつ》もって言語道断、不届きの至りなり。右は、天下こぞって誅戮《ちゅうりく
前へ 次へ
全109ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング