分には見える。稲草《いなくさ》によっては八分通りの出来にすら見える。最初よりはよほど見直したという村の百姓たちの評判もまんざらうそでないと知った時は、思わず彼もホッとした。
十四代将軍|家茂《いえもち》の薨去《こうきょ》が大坂表の方から伝えられたのは、村ではこの凶作で騒いでいる最中である。
三
馬籠の宿場の中央にある高札場《こうさつば》のところには物見高い村の人たちが集まった。何事かと足を停《と》める奥筋行きの商人もある。馬から降りて見る旅の客もある。人々は尾州藩の方から伝達された左の掲示の前に立った。
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「公方様《くぼうさま》、御不例御座遊ばされ候《そうろう》ところ、御養生かなわせられず、去る二十日|卯《う》の上刻、大坂表において薨御《こうぎょ》遊ばされ候。かねて仰せ出《い》だされ候通り、一橋中納言殿《ひとつばしちゅうなごんどの》御相続遊ばされ、去る二十日より上様《うえさま》と称し奉るべき旨《むね》、大坂表において仰せ出だされ候。」
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日ごろこもりがちに暮らしている吉左衛門まで本陣の裏二階を出て、そこへ上の伏見屋から降りて来た老友金兵衛と共に、この掲示を読んだ。そして、二人《ふたり》ともしばらく高札場の付近を立ち去りかねていた。あだかも、享年わずかに二十一歳の若さで薨去《こうきょ》せられたという将軍を街道から遠く見送るかのように。その時はすでに鳴り物一切停止のことも触れ出された。前将軍が穏便《おんびん》の伝えられた時と同じように、この宿場では普請工事の類《たぐい》まで中止して謹慎の意を表することになった。
九月を迎えて、かねて村民の待ち受けていた木曾福島からの秋作《あきさく》見分奉行の出張を見、木曾谷中御年貢上納の難渋を訴えるためにいずれは代官山村氏が尾州表への出府もあるべきよしの沙汰《さた》も伝えられ、小前《こまえ》のもの一同もやや穏やかになったころは、将軍薨去前後の事情が名古屋方面からも福島方面からも次第に馬籠の会所へ知れて来た。八月の二十日として喪を発表せられたのは、御跡目《おんあとめ》相続および御葬送儀式のために必要とせられたのであって、実際には七月の十九日に脚気衝心《かっけしょうしん》の病で薨去せられたという。それまでまだ将軍家は大坂に在城で征長の指揮に当たっていたことのように、喪は秘してあったともいう。小笠原《おがさわら》老中なぞがそこそこに戦地を去ったのも、そのためであることがわかって来た。して見ると半蔵が名古屋出府のはじめのころには、将軍はすでに重い病床にあった人だ。名古屋城のなんとなく取り込んでいたことも、その時になって彼にはいろいろと想《おも》い当たる。
将軍家の薨去と聞いて、諸藩の兵は続々戦地を去りつつあった。兵事をとどむべきよしの勅諚《ちょくじょう》も下り、「何がな休戦の機会もあれかし」と待っていた幕府でも紀州公が総督辞任および長防|討手《うって》諸藩兵全部引き揚げの建言を喜び迎えたとの報知《しらせ》すら伝わって来た。大坂城にあった将軍の遺骸《いがい》は老中|稲葉美濃守《いなばみののかみ》らに守護され、順動丸で江戸へ送られたとも言わるる。それらの報知《しらせ》を胸にまとめて見て、半蔵はいずれこの木曾街道に帰東の諸団体が通行を迎える日のあるべきことを感知した。同時に、敗戦を経験して来るそれらの関東方がこの宿場に置いて行く混雑をも想像した。
種々《さまざま》な流言が伝わって来た。家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮《たいりょ》に反対したのがその病因であるのだから、慶喜はすなわち公が薨去を促した人であると言い、はなはだしいのになると慶喜に望みを寄せる者があって家茂公の病中に看護を怠り、その他界を早めたのだなぞと言うものがある。もっとはなはだしいのになると、家茂公は筆の中に仕込んだ毒でお隠れになったのだと言って、そんな臆測《おくそく》をさも本当の事のように言い触らすものもある。いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲になったのだと言って、およそ困難という困難に際会せられた公の生涯《しょうがい》と、その忍耐温良の徳と、長防親征中の心痛とを数えて見せるものもある。
「暗い、暗い。」
半蔵はひとりそれを言って、到底大きな変革なしに越えられないような封建社会の空気の薄暗さを思い、もはや諸国の空に遠く近く聞きつける鶏の鳴き声のような王政復古の叫びにまで、その薄暗さを持って行って見た。
「武家の奉公もこれまでかと思います。」
半蔵は会所の方で伊之助と一緒になった時、頼みに思う相手の顔をつくづくと見て、その述壊をした。庄屋風情《しょうやふぜい》の彼ですら、江戸幕府の命脈がいくばくもないこ
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