の時になって見ると、村方一同が米の買い入れ方を頼もうにも、宿々は凶作も同様で、他所への米の出入りは少しも叶《かな》わないとなった。馬籠の宿内でもみなみなそう持ち合わせはない。日ごろ米の売買にたずさわる金兵衛方ですら、その月かぎりの家族の飯米が三俵も不足すると言ってあわて出したくらいだ。普請好きな金兵衛は本家や隠宅に工事を始めていて、諸職人の出入りも多かったからで。
こうなると、西に盆地の広くひらけた美濃方面より米を買い入れるよりほかに馬籠の宿場としてはさしあたり適当な道がない。中津川の商人、ことに万屋安兵衛《よろずややすべえ》方なぞへはそれを依頼する使者が毎日のように飛んだ。岩村に米があると聞いては、たとい高い値段を払っても、一時の急をしのがねばならない。そういう岩村米も売り上げて、十両につき三俵替えという値段だ。米一升、実に六百二十四文もした。
毎日のように半蔵は背戸田《せとだ》へ見回りに出た。時には宿役人一同と出入りの百姓を引き連れて、暴風雨《あらし》のために荒らされた田方《たかた》の内見分《ないけんぶん》に出かけた。半蔵が父の吉左衛門とも違い、金兵衛の方は上の伏見屋の隠宅にじっとしていない。長く精力の続くこの隠居は七十歳になっても若い者の中に混じって、半蔵や養子伊之助らが歩いて行く方へ一緒に歩いた。そして朝早くから日暮れに近いころまでかかって、東寄りの峠村中の田、塩沢、岩田、それから大戸あたりの稲作を調べに回った。翌々日も半蔵らは背戸田からはじめて、野戸の下へ出、湫《くて》の尻中道《しりなかみち》から青の原へ回り、中新田、比丘尼寺《びくにでら》、杁《いり》、それから町田を見分した。その時も金兵衛は皆と一緒に歩き回った。どうかして稲を見直したいとは、一同のもののつないでいる望みであった。その年の収穫期を凶作に終わらせたくないと願わないものはなかったのである。
また、また、西よりの谷間《たにあい》にある稲作はどうかと心にかかって、半蔵らは馬籠の町内から橋詰《はしづめ》、荒町の裏通りまで残らず見分に出かけた。中のかやから美濃境の新茶屋までも総見分を行なった。八月の半ば過ぎになると、稲穂もよほど見直したと言って、半蔵のところへ飛んで来るものもある。いかんせん、とかく村方の金子は払底で、美濃方面から輸入する当座の米は高い。難渋な小前《こまえ》の者はそのことを言いたて、宿役人へ願いの筋があるととなえて、村じゅうでの惣《そう》寄り合いを開始する。果ては、大工左官までが業を休み、町内じゅうの小前のものは阿弥陀堂《あみだどう》に詰めて、上納|御年貢米《おねんぐまい》軽減の嘆願を相談するなど、人気は日に日に穏やかでなくなって行った。
金兵衛は半蔵を見るたびに言った。
「どうも、恐ろしい世の中になって来ました。掟年貢《おきてねんぐ》の斗《はか》り立てを勘弁してもらいましょう、そんなことを言って、わたしどもへ出入りの百姓が三人もそろって談判に見えましたよ。」
そういう隠居は木曾谷での屈指な分限者《ぶげんしゃ》と言われることのために、あの桝田屋《ますだや》と自分の家とが特に小前の者から目をつけられるのは迷惑至極だという顔つきである。米不足から普請工事も見合わせ、福島の大工にも帰ってもらい、左官その他の職人に休んでもらったからと言って、そんなことまでとやかくと言い立てられるのは、なおなお迷惑至極だという顔つきである。
「金兵衛さん、」と半蔵は言った。「あなたのようにあり余るほど築き上げたかたが、こんな時に一肌《ひとはだ》脱がないのはうそです。」
「いえ、ですからね、あの兼吉《かねきち》に二俵、道之助に七斗、半四郎に五俵二斗――都合、三口合わせて三石七斗は容赦すると言っているんですよ。」
金兵衛の挨拶《あいさつ》だ。
半蔵はこの人の言うことばかりを聞いていられなかった。庄屋としての彼は、どんな骨折りでもして、小前の者を救わねばならないと考えた。この際、木曾福島からの見分奉行《けんぶんぶぎょう》の出張を求め、場合によっては尾州代官山村|甚兵衛《じんべえ》氏をわずらわし、木曾谷中の不作を名古屋へ訴え、すくなくも御年貢上納の半減をきき入れてもらいたいと考えた。
あいにくな雨の日がまたやって来た。もうたくさんだと思う大雨が朝から降り出して、風の方角も北から西に変わった。本陣の奥座敷では床上《ゆかうえ》がもり、袋戸棚《ふくろとだな》へも雨が落ちた。半蔵は自分の家のことよりも村方を心配して、また町内を見回るために急いでしたくした。腰に結ぶ軽袗《かるさん》の紐《ひも》もそこそこに、寛《くつろ》ぎの間《ま》から囲炉裏ばたに出て下男の佐吉を呼んだ。
「オイ、蓑《みの》と笠《かさ》だ。」
その足で半蔵は町田の向こうまで行って見た。雨にぬれた穂先は五、六
前へ
次へ
全109ページ中89ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング