受けいれるか、受けいれないかは、多くの同時代の人の悩みであって、たとい先師|篤胤《あつたね》がその日まで達者《たっしゃ》に在世せられたとしても、これには苦しまれたろうと思われる問題である。もはや、異国と言えば、オランダ一国を相手にしていて済まされたような、先師の時代ではなくなって来たからである。それにしても、あれほど京都方の反対があったにもかかわらず、江戸幕府が開港を固執して来たについては、何か理由がなくてはならない。幕府の役人にそれほどの先見の明があったとは言いがたい。なるほど、安政万延年代には岩瀬肥後《いわせひご》のような人もあった。しかし、それはごくまれな人のことで、大概の幕府の役人は皆京都あたりの攘夷家に輪をかけたような西洋ぎらいであると言わるる。その人たちが開港を固執して来た。これは外国公使らの脅迫がましい態度に余儀なくせられたとのみ言えるだろうか。水戸浪士の尊攘が話題に上ったのを幸いに、半蔵はその不思議さを二人の友だちの前に持ち出した。
「こういう説もあります。」と景蔵は言った。「政府がひとりで外国貿易の利益を私するから、それでこんなに攘夷がやかましくなった。一年なら一年に、得《う》るところを計算してですね、朝廷へ何ほど、公卿《くげ》へ何ほど、大小各藩へ何ほどというふうに、その額をきめて、公明正大な分配をして来たら、上御一人《かみごいちにん》から下は諸藩の臣下にまでよろこばれて、これほど全国に不平の声は起こらなかったかもしれない。今になって君、そういうことを言い出して来たものもありますよ。」
「政府ばかりが外国貿易の利益をひとり占《じ》めにする法はないか。」と香蔵はくすくすやる。
「ところが、そういうことを言い出して、政府のお役人に忠告を試みたのが、英国公使のアールコックだといううわさだからおもしろいじゃありませんか。」とまた景蔵が言って見せた。
「いや、」と半蔵はそれを引き取って、「そう言われると、いろいろ思い当たることはありますよ。」
「横浜には外国人相手の大遊郭《だいゆうかく》も許可してあるしね。」と香蔵が言い添える。
「あの生麦《なまむぎ》償金のことを考えてもわかります。」と景蔵は言った。「見たまえ、この苦しい政府のやり繰りの中で、十万ポンドという大金がどこから吐き出せると思います。幕府のお役人が開港を固執して来たはずじゃありませんか。」
 しばらく沈黙が続いた。
「半蔵さん。攘夷論がやかましくなって来たそもそもは、あれはいつごろだったでしょう。ほら、幕府の大官が外国商人と結託してるの、英国公使に愛妾《あいしょう》をくれたのッて、やかましく言われた時がありましたっけね。」
「そりゃ、尊王攘夷の大争いにだって、利害関係はついて回る。横浜開港以来の影響はだれだって考えて来たことですからね。でも、尊攘と言えば、一種の宗教運動に似たもので、成敗利害の外にある心持ちから動いて来たものじゃありますまいか。」
「今日《こんにち》まではそうでしょうがね。しかし、これから先はどうありましょうかサ。」
「まあ、西の方へ行って見たまえ。公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ。」
「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た。」
 こんな話も出た。
 その夜、半蔵は家のものに言い付けて二人の友だちの寝床を店座敷に敷かせ、自分も同じように枕《まくら》を並べて、また寝ながら語りつづけた。近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢《いせ》地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙《あ》げて京都に移り住みたい意向であるという師平田|鉄胤《かねたね》のうわさ、枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時のたつのも忘れているうちに、やがて一番|鶏《どり》が鳴いた。

       二

「あなた、佐吉が飯田《いいだ》までお供をすると言っていますよ。」
 お民はそれを言って、あがりはなのところに腰を曲《こご》めながら新しい草鞋《わらじ》をつけている半蔵のそばへ来た。景蔵、香蔵の二人もしたくして伊那行きの朝を迎えていた。
「飯田行きの馬は通《かよ》っているんだろう。」と半蔵は草鞋の紐《ひも》を結びながら言う。
「けさはもう荷をつけて通りましたよ。」
「馬さえ通《かよ》っていれば大丈夫さ。」
「なにしろ、道が悪くて御苦労さまです。」
 そういうお民から半蔵は笠《かさ》を受け取った。下男の佐吉は主人らの荷物のほかに、その朝の囲炉裏で焼いた芋焼餅《いもやきもち》を背中に背負《しょ》った。一同したくができた。そこで出かけた。
 降った雪の溶けずに凍る馬籠峠の上。雪を踏み堅め踏み堅めしてある街道には、猿羽
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