織《さるばおり》を着た村の小娘たちまでが集まって、一年の中の最も楽しい季節を迎え顔に遊び戯れている。愛らしい軽袗《かるさん》ばきの姿に、鳶口《とびぐち》を携え、坂になった往来の道を利用して、朝早くから氷|滑《すべ》りに余念もない男の子の中には、半蔵が家の宗太もいる。
 一日は一日より、白さ、寒さ、深さを増す恵那山《えなさん》連峰の谿谷《けいこく》を右手に望みながら、やがて半蔵は連れと一緒に峠の上を離れた。木曾山森林保護の目的で尾州藩から見張りのために置いてある役人の駐在所は一石栃《いちこくとち》(略称、一石)にある。いわゆる白木の番所だ。番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。その辺は馬籠峠の裏山つづきで、やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山《おたるやま》の付近へと続いて行っている。この地勢のやや窮まったところに、雪崩《なだれ》をも押し流す谿流の勢いを見せて、凍った花崗石《みかげいし》の間を落ちて来ているのが蘭川《あららぎがわ》だ。木曾川の支流の一つだ。そこに妻籠《つまご》手前の橋場があり、伊那への通路がある。
 蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、伊那|諏訪《すわ》へと進んだ遠い昔の人の足跡をそこに想像することはできる。そこにはまた、幾世紀の長さにわたるかと思われるような沈黙と寂寥《せきりょう》との支配する原生林の大きな沢を行く先に見つけることもできる。蘭《あららぎ》はこの谷に添い、山に倚《よ》っている村だ。全村が生活の主《おも》な資本《もとで》を山林に仰いで、木曾名物の手工業に親代々からの熟練を見せているのもそこだ。そこで造らるる檜木笠《ひのきがさ》の匂《にお》いと、石垣《いしがき》の間を伝って来る温暖《あたたか》な冬の清水《しみず》と、雪の中にも遠く聞こえる犬や鶏の声と。しばらく半蔵らはその山家の中の山家とも言うべきところに足を休めた。
 そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路《せいないじ》も近い。清内路の関所と言えば、飯田藩から番士を出張させてある山間《やまあい》の関門である。千余人からの浪士らの同勢が押し寄せて来た当時、飯田藩で間道通過を黙許したものなら、清内路の関所を預かるものがそれをするにさしつかえがあるまいとは、番士でないものが考えても一応言い訳の立つ事柄である。飯田藩の家老と運命を共にしたという関所番が切腹のうわさは、半蔵らにとってまだ実に生々《なまなま》しかった。


 蘭《あららぎ》から道は二つに分かれる。右は清内路に続き、左は広瀬、大平《おおだいら》に続いている。半蔵らはその左の方の道を取った。時には樅《もみ》、檜木《ひのき》、杉《すぎ》などの暗い木立ちの間に出、時には栗《くり》、その他の枯れがれな雑木の間の道にも出た。そして越えて来た蘭川の谷から広瀬の村までを後方に振り返って見ることのできるような木曾峠の上の位置に出た。枝と枝を交えた常磐木《ときわぎ》がささえる雪は恐ろしい音を立てて、半蔵らが踏んで行く路傍に崩《くず》れ落ちた。黒い木、白い雪の傾斜――一同の目にあるものは、ところまだらにあらわれている冬の山々の肌《はだ》だった。
 昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。まず笠《かさ》を脱いで炉ばたに足を休めようとしたのは景蔵だ。香蔵も半蔵も草鞋《わらじ》ばきのままそのそばにふん込《ご》んで、雪にぬれた足袋《たび》の先をあたためようとした。
「どれ、芋焼餅《いもやきもち》でも出さずか。」
 と供の佐吉は言って、馬籠から背負《しょ》って来た風呂敷包みの中のものをそこへ取り出した。
「山で食えば、焼きざましの炙《あぶ》ったのもうまからず。」
 とも言い添えた。
 炉にくべた枯れ枝はさかんに燃えた。いくつかの芋焼餅は、火に近く寄せた鉄の渡しの上に並んだ。しばらく一同はあかあかと燃え上がる火をながめていたが、そのうちに焼餅もよい色に焦げて来る。それを割ると蕎麦粉《そばこ》の香と共に、ホクホクするような白い里芋《さといも》の子があらわれる。大根おろしはこれを食うになくてならないものだ。佐吉はそれを茶屋の婆《ばあ》さんに頼んで、熱い焼餅におろしだまりを添え、主人や客にも勧めれば自分でも頬《ほお》ばった。
 その時、※[#「くさかんむり/稾」、171−13]頭巾《わらずきん》をかぶって鉄砲をかついだ一人の猟師が土間のところに来て立った。
「これさ、休んでおいでや。」
 と声をかけるのは、勝手口の流しもとに皿小鉢《さらこばち》を洗う音をさせている婆さんだ。半蔵は炉ばたにいて尋ねて見た。
「お前はこの辺の者かい。」
「おれかなし。おれは清内路だ。」
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