ましてね、あの翌晩もひとりで起きていて、旧作の長歌を一晩かかって書き改めたりなぞしましたよ。」
 ちょうどその時、年寄役の伊之助が村方の用事をもって家の囲炉裏ばたまで見えたので、半蔵は伊那行きのことを伊之助に話しかつ留守中のことをも頼んで置くつもりで、ちょっとその席をはずした。そして、店座敷へ引き返して来て見ると、景蔵、香蔵の二人はお民にすすめられて、かわるがわる風呂場《ふろば》の方へからだを温《あたた》めに行っていた。
「半蔵、なんにもないが、お客さまに一杯あげる。ごらんな、お客さまというと子供が大はしゃぎだよ。にぎやかでありさえすれば子供はうれしいんだね。」
 と継母のおまんが言うころは、店座敷の障子も薄暗い。下女は行燈《あんどん》をさげて来た。
 やがて、こうした土地での習いで、炬燵板《こたついた》の上を食卓に代用して、半蔵は二人の友だちに山家の酒をすすめた。
「愉快、愉快。」と香蔵はそこへ心づくしの手料理を運んで来るお民を見て言った。「奥さんの前ですが、わたしたちが三人寄ることはこれでめったにないんです。半蔵さんとわたしと二人の時は、景蔵さんは京都の方へ行ってる。景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に出てる。まあ、きょうは久しぶりで、あの寛斎老人の家に三人机を並べた時分の心持ちに帰りましたよ。」


「こうして三人集まって見ると、やっぱり話したい。いや、ことしは実にえらい年でした。いろいろなものが一年のうちに、どしどし片づいて行ってしまいましたよ。」
 食後に、景蔵はそんなことを言い出した。その暮れになって見ると、天王山《てんのうざん》における真木和泉《まきいずみ》の自刃も、京都における佐久間象山《さくましょうざん》の横死も、皆その年の出来事だ。名高い攘夷《じょうい》論者も、開港論者も、同じように故人になってしまった。その時、三人の話は水戸の人たちのことに落ちて行った。
 尊攘は水戸浪士の掲げて来た旗じるしである。景蔵に言わせると、もともと尊王と攘夷とを結びつけ、その二つのものの堅い結合から新機運をよび起こそうと企てたのは真木和泉らの運動で、これは幕府の専横と外国公使らの不遜《ふそん》とを憤り一方に王室の衰微を嘆く至情からほとばしり出たことは明らかであるが、この尊攘の結合を王室回復の手段とするの可否はだんだん心あるものの間に疑問となって来た。尊王は尊王、攘夷は攘夷――尊王は遠い理想、攘夷は当面の外交問題であるからである。しかし、あの真木和泉にはそれを結びつけるだけの誠意があった。衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。もはやその人はない。尊攘の運動は事実においてすでにその中心の人物を失っている。のみならず、筑後水天宮《ちくごすいてんぐう》の祠官《しかん》の家に生まれ、京都学習院の徴士にまで補せられ、堂々たる朝臣の列にあった真木和泉がたとい生きながらえているとしても、大和《やまと》行幸論に一代を揺り動かしたほどの熱意を持ちつづけて、今後もあの尊攘論で十八隻から成る英米仏蘭四国の連合艦隊を向こうに回すようなこの国の難局を押し通せるものかどうか。尊王と攘夷との切り離して考えられるような時がようやくやって来たのではなかろうか。これが景蔵の意見であった。
 景蔵は言った。
「どうでしょう、尊攘ということもあの水戸の人たちを最後とするんじゃありますまいか。」


「しかし、景蔵さん。」とその時、香蔵は年上の友だちの話を引き取って言った。「あの亀山嘉治《かめやまよしはる》なぞは、そうは考えていませんぜ。」
「亀山は亀山、われわれはわれわれですさ。」と景蔵は言う。
「そういう景蔵さんの意見は、実際の京都生活から来てる。どうもわたしはそう思う。」
「そんなら見たまえ、長州藩あたりじゃ伊藤俊助《いとうしゅんすけ》だの井上聞多《いのうえもんた》だのという人たちをイギリスへ送っていますぜ。それが君、去年あたりのことですぜ。あの人たちの密航は、あれはなかなか意味が深いといううわさです。攘夷派の筆頭として知られた長州藩の人たちがそれですもの。」
「世の中も変わって来ましたな。」
「まあ、わたしに言わせると、尊攘ということを今だにまっ向《こう》から振りかざしているのは、水戸ばかりじゃないでしょうか。そこがあの人たちの実に正直なところでもありますがね。」
 木曾山の栗《くり》の季節はすでに過ぎ去り、青い香のする焼き米にもおそい。それまで半蔵は炬燵《こたつ》の上に手を置いて二人の友だちの話を聞いていたが、雪の来るまで枯れ枝の上に残ったような信濃柿《しなのがき》の小粒で霜に熟したのなぞをそこへ取り出して来て、景蔵や香蔵と一緒に熱い茶をすすりながら、店座敷の行燈《あんどん》のかげに長い冬の夜を送ろうとしていた。彼にして見ると、ヨーロッパを
前へ 次へ
全109ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング