という。
「あの蝿帽子峠の手前に、クラヤミ峠というのがございます。」と儀十郎は言って見せた。「ひどい峠で、三里の間は闇《やみ》を行くようだと申しますんで、それで俗にクラヤミでございますさ。あの辺は深い雪と聞きますから、浪士も難渋いたしましたろうよ。」
「千辛万苦の旅ですね。」
と勝重も言っていた。
間もなく景蔵らはこの稲葉屋を辞して、落合の宿をも離れた。中山薬師から十曲峠にかかって、新茶屋に出ると、そこはもう隣の国だ。雪まじりに土のあらわれた街道は次第に白く変わっていた。鋭い角度を見せた路傍の大石も雪にぬれていて、まず木曾路の入り口の感じを二人に与える。
師走の五日には中津川や落合へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上では、宿場そのものがすでに冬ごもりだ。南側の雪は溶けても、北側は溶けずに、石を載せた板屋根までが山家らしいところで、中津川から行った二人の友だちはそこに待ちわび顔な半蔵とも、その家族の人たちとも一緒になった。
この伊那《いな》行きはひどく半蔵をもよろこばせた。水戸浪士の通過を最後にして、その年の街道の仕事もどうやら一段落を告げたばかりではない。浪士らの残して置いて行った刺激は彼の心を静かにさせて置かなかったからである。浪士らの通過以来、伊那にある平田門人らはしきりに往来し始めたと聞くころだ。半蔵もまた二人の年上の友だちと共に、たとい大平峠の雪を踏んでも、伊那の谷の方にある同門の人たちを見に行かずにはいられなかった。
馬籠本陣の店座敷では、翌朝の出発を楽しみにする三人が久しぶりの炬燵話《こたつばなし》に集まった。そこへ半蔵の父吉左衛門も茶色な袖無《そでな》し羽織などを重ねながらちょっと挨拶《あいさつ》に来て、水戸浪士のうわさを始める。
「中津川の方はいかがでしたか。」
「そりゃ、香蔵さん、馬籠は君たちの方と違って、隣に妻籠《つまご》というものを控えていましょう。福島から出張した人たちは大平口を堅める。えらい騒ぎでしたさ。」と半蔵が言う。
「いや、はや、あの時は福島の家中衆も大あわて。」とまた吉左衛門が言って見せた。「あとになって軍用の荷物をあけて見たら、あなた、桜沢口の方へは鉄砲の玉ばかり行って、大平口の方へはまた焔硝《えんしょう》(火薬)ばかり来ておりましたなんて。まあ、無事に浪士を落としてやってよかったと思うものは、わたしたちばかりじゃありますまい。あれから総督の田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》が浪士の跡を追って来るというので、またこちらじゃ一騒ぎでしたよ。御同勢千人あまり、残らず軍《いくさ》の陣立てで、剣付鉄砲を一|挺《ちょう》ずつ用意しまして、浪士の立った翌日には伊那道の広瀬村泊まりで追って来るなぞといううわさでしょう。御承知のとおり、宅では浪士の宿をしましたから、どういうことになろうかと思って、ひどく心配しました。あの翌々日には、お先荷の長持だけはまいりましたが、とうとう田沼侯の御同勢はまいりませんでした。あの時ばかりはわたしもホッとしましたよ。聞けば飯田藩じゃ、御家老が切腹したといううわさじゃありませんか。おまけに、清内路の御関所番までも……」
吉左衛門は年老いた手を膝《ひざ》の上に置いて、深いため息をついた。
父が席を避けて行った後、半蔵は水戸浪士の幹部の人たちから礼ごころに贈られたものを二人の友だちの前に取り出した。武田、田丸、山国、藤田諸将の書いた詩歌の短冊《たんざく》、小桜縅《こざくらおどし》の甲冑片袖《かっちゅうかたそで》、そのほかに小荷駄掛りの亀山嘉治《かめやまよしはる》が特に半蔵のもとに残して置いて行った歌がある。水戸浪士に加わって来た同門の人が飯田や馬籠での述懐だ。
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あられなす矢玉の中は越えくれどすすみかねたる駒《こま》の山麓《やまもと》
ふみわくる深山紅葉《みやまもみじ》を敷島のやまとにしきと見る人もがも
八束穂《やつかほ》のしげる飯田の畔《あぜ》にさへ君に仕ふる道はありけり
みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし
草まくら夜ふす猪《しし》の床《とこ》とはに宿りさだめぬ身にもあるかな
つはものに数ならぬ身も神にます我が大君の御楯《みたて》ともがな
木曾山の八岳《やたけ》ふみこえ君がへに草むす屍《かばね》ゆかむとぞおもふ
[#地から7字上げ]嘉治
[#ここで字下げ終わり]
「亀山は亀山らしい歌を残して行きましたね。思い入った人の歌ですね。」
と景蔵が言うと、半蔵は炬燵《こたつ》の上に手を置きながら、
「あの騒ぎの中で、亀山とは一晩じゅう話してしまいました。もっとも、番士は交代で篝《かがり》を焚《た》く、村のものは村のもので宿内を警戒する、火の番は回って来る、なかなか寝られるようなものじゃありませんでしたよ。わたしも興奮し
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