半蔵に就《つ》いて内弟子《うちでし》として馬籠本陣の方にあった勝重も、その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。
「勝重さんもよい子息《むすこ》さんになりましたね。」
驚くばかりの成長の力を言いあらわすべき言葉もないというふうに、二人は勝重の前に立って、まだ前髪のあるその額《ひたい》つきをながめながら、かわるがわるいろいろなことを尋ねて見た。この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。その日は二人とも馬籠泊まりのつもりであり、急ぐ道でもなかったからで。のみならず、落合村の長老として知られた勝重の父儀十郎を見ることも、二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。
稲葉屋へ寄って見ると、そこでも浪士らのうわさが尽きない。横田東四郎からその子の首級を託せられた節は稲葉屋でも驚いたであろうという景蔵らの顔を見ると、勝重の父親はそれだけでは済まさなかった。あの翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人|万屋安兵衛《よろずややすべえ》と大和屋李助《やまとやりすけ》の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、金子《きんす》二百両の無心のあったことを語り出すのも勝重の父親だ。
「その話はわたしも聞きました。」と景蔵が笑う。
「でも、世の中は回り回っていますね。」と香蔵は言った。「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて。」
「そこは安兵衛さんです。」と儀十郎は昔気質《むかしかたぎ》な年寄役らしい調子で、「あの人は即答はできないが、一同でよく相談して来ると言って、いったん中津川の方へ引き取って行きました。それから、あなた、生糸《きいと》取引に関係のあったものが割前で出し合いまして、二百両耳をそろえてそこへ持って来ましたよ。」
「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった。」と香蔵が言う。
しかし、一方に、浪士らが軍律をきびしくすることも想像以上で、幹部の目を盗んで民家を掠奪《りゃくだつ》した一人の土佐《とさ》の浪人のあることが発見され、この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同志で追跡して、とうとうその男を天誅《てんちゅう》に処した、その男の逃げ込んだ百姓家へは手当てとして金子一両を家内のものへ残して行ったと語って見せるのも、またこの儀十郎だ。
「何にいたせ、あの同勢が鋭い抜き身の鎗《やり》や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、恐ろしゅうございました。」
それを儀十郎が言うと、子息は子息で、
「あの藤田小四郎が吾家《うち》へも書いたものを残して行きましたよ。大きな刀をそばに置きましてね、何か書くから、わたしに紙を押えていろと言われた時は、思わずこの手が震えました。」
「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷《はちや》さんにもお目にかけな。」
浪士らは行く先に種々《さまざま》な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅《くろいとおどし》の甲冑片袖《かっちゅうかたそで》を残した。それは玉子色の羽二重《はぶたえ》に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。
「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です。」と儀十郎が言う。
「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう。」
景蔵の答えだ。
その時、勝重は若々しい目つきをしながら、小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという唐土《とうど》の予譲《よじょう》を想《おも》わせるようなはげしい水戸人の気性《きしょう》がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四歳の青年とは思われないような老成な筆蹟《ひっせき》で。
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大丈夫当雄飛《だいじょうふまさにゆうひすべし》安雌伏《いずくんぞしふくせんや》
[#地から2字上げ]藤田信
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「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう。」
景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。
その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前《えちぜん》の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然《はっきり》しない。中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を出立した浪士らは加納藩《かのうはん》や大垣藩《おおがきはん》との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井《たるい》あたりの要処には彦根藩《ひこねはん》の出兵があると聞いて、あれから道を西北方に転じ、長良川《ながらがわ》を渡ったものらしい。師走《しわす》の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境《くにざかい》にあたる蝿帽子峠《はえぼうしとうげ》の険路を越えて行った
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