も立って見た間柄である。その時の二人は供の男も連れず、途中は笠《かさ》に草鞋《わらじ》があれば足りるような身軽な心持ちで、思い思いの合羽《かっぱ》に身を包みながら、午後から町を離れた。もっとも、飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考えると紋付の羽織に袴《はかま》ぐらい風呂敷包《ふろしきづつ》みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、馬籠本陣への手土産《てみやげ》も忘れてはいなかったが。
中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合《おちあい》の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠《じっきょくとうげ》にかかって、あれから信濃《しなの》の国境《くにざかい》に出られる。各駅の人馬賃銭が六倍半にも高くなったその年の暮れあたりから見ると、二人の青年時代には駅と駅との間を通う本馬《ほんま》五十五文、軽尻《からじり》三十六文、人足二十八文と言ったところだ。
水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った。飯田の方で北原兄弟が間道通過のことに尽力してからこのかた、清内路に、馬籠に、中津川に、浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのはいずれもこの地方に本陣庄屋なぞをつとめる平田門人らのもとであった。一方には幕府への遠慮があり、一方には土地の人たちへの心づかいがあり、平田門人らの苦心も一通りではなかった。木曾にあるものも、東美濃にあるものも、同門の人たちは皆この事件からは強い衝動を受けた。
水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、実にいろいろなものが残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋《いなばや》まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした首級の埋葬方を依頼された時のことも、まだ二人の記憶に生々《なまなま》しい。これは和田峠で戦死したのをこれまで渋紙包みにして持参したのである。二男藤三郎、当年十八歳になるものの首級であると言って、実父の東四郎がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。そういう横田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛《こにだがか》り亀山嘉治《かめやまよしはる》と共に、水戸浪士中にある三人の平田門人でもあったのだ。
浪士らの行動についてはこんな話も残った。和田峠合戦のあとをうけ下諏訪《しもすわ》付近の混乱をきわめた晩のことで、下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。背中には長煩《ながわずら》いで床についていた一人の老母もある。どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、母は背に負われて腹筋の痛みに堪《た》えがたいと言い出す。その時の母の言葉に、自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、その方は若者だ、どんな憂《う》き目を見ないともかぎるまいから、早く身を隠せよ。そう言われた百姓は、どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、古筵《ふるむしろ》なぞを母にきせて介抱していると、ちょうどそこへ来かかった二人の浪士の発見するところとなった。お前は当所のものであろう、寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、百姓は大病の老母を控えていることを答えて、その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。しからば自分の家来を老母に付けて置こう、早く案内せとその浪士に言われて見ると、百姓も断わりかねた。案内した先は三町ほど隔たった来迎寺《らいごうじ》の境内だ。浪士はあちこちと場所を選んだ。扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。敬い拝して言うことには、こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思《おぼ》し召されよう、軍《いくさ》の習い、是非ないことと思し召されよと、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。それから浪士は元のところへ引き返して来て、それまで案内した男に褒美《ほうび》として短刀を与えたが、百姓の方ではそれを受けようとしなかった。元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、銀壱朱をそこに投げやりながら、家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。
こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。
景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角《まちかど》で一人の若者にあった。稲葉屋の子息《むすこ》勝重《かつしげ》だ。長いこと
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