まで行こうとしますまい。水戸の城下の方で討死《うちじに》の覚悟をするだろうと思いますね。」
「そりゃ、半蔵。老人ばかりなら、最初から筑波山《つくばさん》には立てこもるまいよ。」
父と子は互いに顔を見合わせた。
幕府への遠慮から、駅長としての半蔵は家の門前に「武田伊賀守様|御宿《おんやど》」の札も公然とは掲げさせなかったが、それでも玄関のところには本陣らしい幕を張り回させた。表向きの出迎えも遠慮して、年寄役伊之助と組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》の二人と共に宿はずれまで水戸の人たちを迎えようとした。
「お母《っか》さん、お願いしますよ。」
と彼が声をかけて行こうとすると、おまんはあたりに気を配って、堅く帯を締め直したり、短刀をその帯の間にはさんだりしていた。
もはや、太鼓の音だ。おのおの抜き身の鎗《やり》を手にした六人の騎馬武者と二十人ばかりの歩行《かち》武者とを先頭にして、各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た。
この一行の中には、浪士らのために人質に取られて、腰繩《こしなわ》で連れられて来た一人の飯田の商人もあった。浪士らは、椀屋文七《わんやぶんしち》と聞こえたこの飯田の商人が横浜貿易で一万両からの金をもうけたことを聞き出し、すくなくも二、三百両の利得を吐き出させるために、二人の番士付きで伊那から護送して来た。きびしく軍の掠奪《りゃくだつ》を戒め、それを犯すものは味方でも許すまいとしている浪士らにも一方にはこのお灸《きゅう》の術があった。ヨーロッパに向かって、この国を開くか開かないかはまだ解決のつかない多年の懸案であって、幕府に許されても朝廷から許されない貿易は売国であるとさえ考えるものは、排外熱の高い水戸浪士中に少なくなかったのである。
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第十一章
一
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「青山君――伊那にある平田門人の発起《ほっき》で、近く有志のものが飯田《いいだ》に集まろうとしている。これはよい機会と思われるから、ぜひ君を誘って一緒に伊那の諸君を見に行きたい。われら両人はその心組みで馬籠《まごめ》までまいる。君の都合もどうあろうか。ともかくもお訪《たず》ねする。」
[#地から4字上げ]中津川にて
[#地から2字上げ]景蔵
[#地から2字上げ]香蔵
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馬籠にある半蔵あてに、二人《ふたり》の友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
美濃《みの》の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士らが清内路《せいないじ》から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。北原稲雄兄弟をはじめ、浪士らの間道通過に斡旋《あっせん》した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。景蔵や香蔵が訪《たず》ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様《かずのみやさま》御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。
「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう。」
香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居《すまい》の門口から声をかけた。そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、しばらく逗留《とうりゅう》したりして行くような幾多の志士たち――たとえば、内藤頼蔵《ないとうらいぞう》、磯山新助《いそやましんすけ》、長谷川鉄之進《はせがわてつのしん》、伊藤祐介《いとうゆうすけ》、二荒四郎《ふたらしろう》、東田行蔵《ひがしだこうぞう》らの人たちを優にかばいうるほどの奥行きの深い本陣である。そこはまた、過ぐる文久二年の夏、江戸屋敷の方から来た長州侯の一行が木曾街道経由で上洛《じょうらく》の途次、かねての藩論たる公武合体、航海遠略から破約|攘夷《じょうい》へと、大きく方向の転換を試みるための中津川会議を開いた由緒《ゆいしょ》の深い家でもある。
「どうでしょう、香蔵さん、大平峠《おおだいらとうげ》あたりは雪でしょうか。」
「さあ、わたしもそのつもりでしたくして来ました。」
二人の友だちはまずこんな言葉をかわした。景蔵のしたくもできた。とりあえず馬籠まで行こう、二人して半蔵を驚かそうと言うのは香蔵だ。年齢の相違こそあれ、二人は旧《ふる》い友だちであり、平田の門人仲間であり、互いに京都まで出て幾多の政変の渦《うず》の中に
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