ものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋《あおいもん》の箱、長柄《ながえ》の傘《かさ》、御紋付きの長持から、長棒の駕籠《かご》の類《たぐい》まであるのを意外として、まるで三、四十万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。
しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護《まも》るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸|駒込《こまごめ》の別邸で永蟄居《えいちっきょ》を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸《ひたち》のふるさとから離れようとしていたからで。
天龍川《てんりゅうがわ》のほとりに出てからも、浪士らは武装を解こうとしなかった。いずれも鎧兜《よろいかぶと》、あるいは黒の竪烏帽子《たてえぼし》、陣羽織のいでたちである。高く掲げた紅白の旗、隊伍を区別する馬印《うまじるし》などは、馬上の騎士が携えた抜き身の鎗《やり》に映り合って、その無数の群立と集合との感じが一行の陣容をさかんにした。各部隊の護って行く二門ずつの大砲には皆御隠居の筆の跡が鋳《い》てある。「発而皆中節《はっしてみなせつにあたる》、源斉昭書《みなもとのなりあきしょ》」の銘は浪士らが誇りとするものだ。行列の中央に高く「尊攘《そんじょう》」の二字を掲げた旗は、陣太鼓と共に、筑波以来の記念でもあった。参謀の兵部は軍中第二班にある。采配を腰にさし、甲冑《かっちゅう》騎馬で、金の三蓋猩々緋《さんがいしょうじょうひ》の一段幡連《いちだんばれん》を馬印に立て、鎗鉄砲を携える百余人の武者を率いた。総勢の隊伍《たいご》を、第一班から第六班までの備えに編み、騎馬の使番に絶えず前後周囲を見回らせ、隊列の整頓《せいとん》と行進の合図には拍子木《ひょうしぎ》を用いることなぞ皆この人の精密な頭脳から出た。水戸家の元|側用人《そばようにん》で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金《そうきん》の馬印を立て、百人ほどの銃隊士に護《まも》られながら中央の部隊を堅めた。五十人ばかりの鎗隊士を従えた稲右衛門は梶《かじ》の葉の馬印で、副将らしい威厳を見せながらそのあとに続いた。主将耕雲斎は「奉勅」の旗を先に立て、三蓋菱《さんがいびし》の馬印を立てた百人ばかりの騎兵隊がその前に進み、二百人ばかりの歩行武者の同勢は抜き身の鎗でそのあとから続いた。山国兵部父子はもとよりその他にも親子で連れだって従軍するものもある。各部隊が護って行く思い思いの旗の文字は、いずれも水府義士をもって任ずる彼らの面目を語っている。その中にまじる「百花の魁《さきがけ》」とは、中世以来の堅い殻《から》を割ってわずかに頭を持ち上げようとするような、彼らの早い先駆感をあらわして見せている。
伊那には高遠藩《たかとおはん》も控えていた。和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老|水野新左衛門《みずのしんざえもん》という人の討死《うちじに》、そのほか多数の死傷に加えて浪士側に分捕《ぶんど》りせられた陣太鼓、鎗、具足、大砲なぞのうわさは高遠藩を沈黙させた。それでも幕府のきびしい命令を拒みかねて、同藩では天龍川の両岸に出兵したが、浪士らの押し寄せて来たと聞いた時は指揮官はにわかに平出《ひらで》の陣地を撤退して天神山《てんじんやま》という方へ引き揚げた。それからの浪士らは一層勇んで一団となった行進を続けることができた。
進み過ぎる部隊もなく、おくれる部隊もなかった。中にはめずらしい放吟の声さえ起こる。馬上で歌を詠ずるものもある。路傍《みちばた》の子供に菓子などを与えながら行くものもある。途中で一行におくれて、また一目散に馬を飛ばす十六、七歳の小冠者《こかんじゃ》もある。
こんなふうにしてさらに谷深く進んだ。二十二日には浪士らは上穂《かみほ》まで動いた。そこまで行くと、一万七千石を領する飯田《いいだ》城主|堀石見守《ほりいわみのかみ》は部下に命じて市田村《いちだむら》の弓矢沢というところに防禦《ぼうぎょ》工事を施し、そこに大砲数門を据《す》え付けたとの報知《しらせ》も伝わって来た。浪士らは一つの難関を通り過ぎて、さらにまた他の難関を望んだ。
「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたが
前へ
次へ
全109ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング