落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。深手《ふかで》に苦しむものは十人ばかりある。それも歩人《ぶにん》に下知して戸板に載せ介抱を与えた。こういう時になくてならないのは二人の従軍する医者の手だ。陣中には五十ばかりになる一人の老女も水戸から随《つ》いて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けてかいがいしく立ち働いた。
夜もはや四つ半時を過ぎた。浪士らは味方の死骸《しがい》を取り片づけ、名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。その他は死骸のあるところでいささかの火をかけ、土中に埋《うず》めた。仮りの埋葬も済んだ。樋橋には敵の遺棄した兵糧や弁当もあったので、それで一同はわずかに空腹をしのいだ。激しい饑《う》え。激しい渇《かわ》き。それを癒《いや》そうためばかりにも、一同の足は下諏訪の宿へ向いた。やがて二十五人ずつ隊伍《たいご》をつくった人たちは樋橋を離れようとして、夜の空に鳴り渡る行進の法螺《ほら》の貝を聞いた。
樋橋から下諏訪までの間には、村二つほどある。道案内のものを先に立て、松明《たいまつ》も捨て、途中に敵の待ち伏せするものもあろうかと用心する浪士らの長い行列は夜の街道に続いた。落合村まで進み、下の原村まで進んだ。もはやその辺には一人の敵の踏みとどまるものもなかった。
合図の空砲の音と共に、浪士らの先着隊が下諏訪にはいったころは夜も深かった。敗退した諏訪松本両勢は高島城の方角をさして落ちて行ったあとで、そこにも一兵を見ない。町々もからっぽだ。浪士らは思い思いの家を見立てて、鍋釜《なべかま》から洗い米などの笊《ざる》にそのまま置き捨ててあるようなところへはいった。耕雲斎は問屋《といや》の宅に、稲右衛門は来迎寺《らいごうじ》にというふうに。町々の辻《つじ》、秋宮《あきみや》の鳥居前、会所前、湯のわき、その他ところどころに篝《かがり》が焚《た》かれた。四、五人ずつの浪士は交代で敵の夜襲を警戒したり、宿内の火の番に回ったりした。
三百人ばかりの後陣の者は容易に下諏訪へ到着しない。今度の戦闘の遊軍で、負傷者などを介抱するのもそれらの人たちであったから、道に隙《ひま》がとれておくれるものと知れた。その間、本陣に集まる幹部のものの中にはすでに「明日」の評定がある。もともと浪士らは高島城を目がけて来たものでもない。西への進路を切り開くためにのみ、やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。その夜の評定に上ったは、前途にどこをたどるべきかだ。道は二つある。これから塩尻峠《しおじりとうげ》へかかり、桔梗《ききょう》が原《はら》を過ぎ、洗馬《せば》本山《もとやま》から贄川《にえがわ》へと取って、木曾《きそ》街道をまっすぐに進むか。それとも岡谷《おかや》辰野《たつの》から伊那《いな》道へと折れるか。木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。二十二里余にわたる木曾の森林の間は、嶮岨《けんそ》な山坂が多く、人馬の継立《つぎた》ても容易でないと見なされた。彼らはむしろ谷も広く間道も多い伊那の方をえらんで、一筋の血路をそちらの方に求めようと企てたのである。
不眠不休ともいうべき下諏訪での一夜。ようやく後陣のものが町に到着して一息ついたと思うころには、本陣ではすでに夜立ちの行動を開始した。だれ一人、この楽しい湯の香のする町に長く踏みとどまろうとするものもない。一刻も早くこれを引き揚げようとして多くの中にはろくろく湯水を飲まないものさえある。
「夜盗を警戒せよ。」
その声は、幹部のものの間からも、心ある兵士らの間からも起こった。この混雑の中で、十五、六軒ばかりの土蔵が切り破られた。だれの所業《しわざ》ともわからないような盗みが行なわれた。浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。
暁《あけ》の六つ時《どき》には浪士は残らず下諏訪を出立した。平出宿《ひらでしゅく》小休み、岡谷《おかや》昼飯の予定で。あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、陣羽織のままで大八車《だいはちぐるま》を押して行くのもある。甲冑《かっちゅう》も着ないで馬に乗って行くのもある。負傷兵を戸板で運ぶのもある。もはや、大霜《おおしも》だ。天もまさに寒かった。
二
もとより浪士らは後方へ引き返すべくもない。幕府から回された討手《うって》の田沼勢は絶えず後ろから追って来るとの報知《しらせ》もある。千余人からの長い行列は前後を警戒しながら伊那の谷に続いた。
筑波《つくば》の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真《ま》に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭《はたごせん》一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。ある
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