士の一隊は高い山上の位置から諏訪松本両勢の陣地を望み見るところまで達した。
こんなに浪士側が迫って行く間に、一方諏訪勢はその時までも幕府の討伐隊を頼みにした。来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、敵として進んで来る浪士らを迎え撃つのほかはない。間もなく、峠の峰から一面に道を押し降《くだ》った浪士側は干草山《ほしくさやま》の位置まで迫った。そこは谷を隔てて諏訪勢の陣地と相距《あいへだ》たること四、五町ばかりだ。両軍の衝突はまず浪士側から切った火蓋《ひぶた》で開始された。山の上にも、谷口にも、砲声はわくように起こった。
諏訪勢もよく防いだ。次第に浪士側は山の地勢を降り、砥沢口《とざわぐち》から樋橋《といはし》の方へ諏訪勢を圧迫し、鯨波《とき》の声を揚げて進んだが、胸壁に拠《よ》る諏訪勢が砲火のために撃退せられた。諏訪松本両藩の兵は五段の備えを立て、右翼は砲隊を先にし鎗《やり》隊をあとにした尋常の備えであったが、左翼は鎗隊を先にして、浪士側が突撃を試みるたびに吶喊《とっかん》し逆襲して来た。こんなふうにして追い返さるること三度。浪士側も進むことができなかった。
その日の戦闘は未《ひつじ》の刻《こく》から始まって、日没に近いころに及んだが、敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。まぶしい夕日の反射を真面《まとも》に受けて、鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、五、六十人ばかりの一隊を深沢山《ふかざわやま》の峰に回らせた。この一隊は左手の河《かわ》を渡って、松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。その時浪士の一人《ひとり》が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降《くだ》った。
耕雲斎は砥沢口《とざわぐち》まで進出した本陣にいた。それとばかり采配《さいはい》を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強《がんきょう》に抵抗を続けようとする部隊もあったが、崩《くず》れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。
とうとう、田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》は来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。にわかの火の手が天の一方に揚がった。諏訪方の放火だ。浪士らの足だまりをなくする意味で、彼らはその手段に出た。樋橋村の民家三軒に火を放って置いて退却し始めた。白昼のように明るく燃え上がる光の中で、諏訪方にはなおも踏みとどまろうとする勇者もあり、ただ一人元の陣地に引き返して来て二発の大砲を放つものさえあった。追撃の小競合《こぜりあ》いはそこにもここにもあった。そのうちに放火もすこし下火になって、二十日の夜の五つ時の空には地上を照らす月代《つきしろ》とてもない。敵と味方の見定めもつかないような深い闇《やみ》が総崩れに崩れて行く諏訪松本両勢を包んでしまった。
この砥沢口の戦闘には、浪士側では十七人ほど討死《うちじに》した。百人あまりの鉄砲|疵《きず》鎗疵なぞの手負いを出した。主将耕雲斎も戦い疲れたが、また味方のもの一同を樋橋に呼び集めるほど元気づいた。湊《みなと》出発以来、婦人の身でずっと陣中にある大納言《だいなごん》の簾中《れんちゅう》も無事、山国親子も無事、筑波《つくば》組の稲右衛門、小四郎、皆無事だ。一同は手分けをして高島陣地その他を松明《たいまつ》で改めた。そこの砦《とりで》、ここの胸壁の跡には、打ち捨ててある兜《かぶと》や小銃や鎗や脇差《わきざし》や、それから床几《しょうぎ》陣羽織《じんばおり》などの間に、目もあてられないような敵味方の戦死者が横たわっている。生臭《なまぐさ》い血の臭気《におい》はひしひしと迫って来る夜の空気にまじって一同の鼻をついた。
耕雲斎は抜き身の鎗を杖《つえ》にして、稲右衛門や兵部や小四郎と共に、兵士らの間をあちこちと見て回った。戦場のならいで敵の逆襲がないとは言えなかった。一同はまたにわかに勢ぞろいして、本陣の四方を固める。その時、耕雲斎は一手の大将に命じ、味方の死骸《しがい》を改めさせ、その首を打ち
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