玉筒二|挺《ちょう》、小銃五十挺ほどだ。物頭の計らいで、松本方三百五十人への一度分の弁当、白米三俵、味噌《みそ》二|樽《たる》、漬《つ》け物一樽、それに酒二樽を贈った。
樋橋付近の砦《とりで》の防備、および配置なぞは、多くこの物頭の考案により、策戦のことは諏訪藩銃隊頭を命ぜられた用人塩原彦七の方略に出た。日がな一日降りしきる強雨の中で、蓑笠《みのかさ》を着た数百人の人夫が山から大木を伐《き》り出す音だけでも周囲に響き渡った。そこには砲座を定めて木の幹を畳《たた》むものがある。ここには土居を築き土俵を積んで胸壁を起こすものがある。下諏訪《しもすわ》から運ぶ兵糧《ひょうろう》では間に合わないとあって、樋橋には役所も設けられ、炊《た》き出しもそこで始まった。この工事は夜に入って松明《たいまつ》の光で谷々を照らすまで続いた。垂木岩《たるきいわ》の桟《かけはし》も断絶せられ、落合橋《おちあいばし》も切って落とされた。村上の森のわきにあたる街道筋には篝《かがり》を焚《た》いて、四、五人ずつの番士が交代でそこに見張りをした。
水戸浪士の西下が伝わると、沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こした。樋橋の山の神の砦《とりで》で浪士らをくい止める諏訪藩の思《おぼ》し召しではあるけれども、なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に臨み、場数を踏んでいる浪士らのことである、万一破れたらどうなろう。このことが沿道の住民に恐怖を抱《いだ》かせるようになった。種々《さまざま》な風評は人の口から口へと伝わった。万一和田峠に破れたら、諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、下諏訪へ退いて宿内をも焼き払うだろう、高島の方へは一歩も入れまいとして下諏訪で防戦するだろう、そんなことを言い触らすものがある。その「万一」がもし事実となるとすると、下原村は焼き払われるだろう、宿内の友《とも》の町、久保《くぼ》、武居《たけい》も危《あぶ》ない、事急な時は高木大和町《たかぎやまとちょう》までも焼き払い、浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、だれが言い出したともないような風評がひろがった。
沿道の住民はこれには驚かされた。家財は言うまでもなく、戸障子まで取りはずして土蔵へ入れるものがある。土蔵のないものは最寄《もよ》りの方へ預けると言って背負《しょ》い出すものがあり、近村まで持ち運ぶものがある。
また、また、土蔵も残らず打ち破り家屋敷もことごとく焼き崩《くず》して浪士らの足だまりのないようにされるとの風聞が伝わった。それを聞いたものは皆大いに驚いて、一度土蔵にしまった大切な品物をまた持ち出し、穴を掘って土中に埋めるものもあれば、畑の方へ持ち出すものもある。何はともあれ、この雨天ではしのぎかねると言って、できるだけ衣類を背負《しょ》うことに気のつくものもある。人々は互いにこの混乱の渦《うず》の中に立った。乱世もこんなであろうかとは、互いの目がそれを言った。付近の老若男女はその夜のうちに山の方へ逃げ失《う》せ、そうでないものは畑に立ち退《の》いて、そこに隠れた。
伊賀守《いがのかみ》としての武田耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行《もとまちぶぎょう》田丸稲右衛門を副将に、軍学に精通することにかけては他藩までその名を知られた元小姓頭取《もとこしょうとうどり》の山国兵部《やまぐにひょうぶ》を参謀にする水戸浪士の群れは、未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来た。毎日の行程およそ四、五里。これは雑兵どもが足疲れをおそれての浪士らの動きであったが、その日ばかりは和田峠を越すだけにも上り三里の道を踏まねばならなかった。
天気は晴れだ。朝の空には一点の雲もなかった。やがて浪士らは峠にかかった。八本の紅白の旗を押し立て、三段に別れた人数がまっ黒になってあとからあとからと峠を登った。両|餅屋《もちや》はすでに焼き払われていて、その辺には一人《ひとり》の諏訪兵をも見なかった。先鋒隊《せんぽうたい》が香炉岩《こうろいわ》に近づいたころ、騎馬で進んだものはまず山林の間に四発の銃声を聞いた。飛んで来る玉は一発も味方に当たらずに、木立ちの方へそれたり、大地に打ち入ったりしたが、その音で伏兵のあることが知れた。左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。
山間《やまあい》の道路には行く先に大木が横たえてある。それを乗り越え乗り越えして進もうとするもの、幾多の障害物を除こうとするもの、桟《かけはし》を繕おうとするもの、浪士側にとっては全軍のために道をあけるためにもかなりの時を費やした。間もなく香炉岩の上の山によじ登り、そこに白と紺とを染め交ぜにした一本の吹き流しを高くひるがえした味方のものがある。一方の山の上にも登って行って三本の紅《あか》い旗を押し立てるものが続いた。浪
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