でその嶮岨《けんそ》な地勢に拠《よ》り、要所要所を固めてかかったなら、敵を討《う》ち取ることができようと力説した。幸いなことには、幕府追討総督として大兵を率いる田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》が浪士らのあとを追って来ることが確かめられた。諏訪藩の家老はじめ多くのものはそれを頼みにした。和田峠に水戸浪士を追いつめ、一方は田沼勢、一方は高島勢で双方から敵を挾撃《きょうげき》する公儀の手はずであるということが何よりの力になった。一藩の態度は決した。さてこそ斥候隊の出動となったのである。
 元治《げんじ》元年十一月十九日のことで、峠の上へは朝から深い雨が来た。


 やがて和田方面へ偵察《ていさつ》に出かけて行ったものは、また雨をついて峠の上に引き返して来る。いよいよ水戸浪士がその日の晩に長窪《ながくぼ》和田両宿へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、諏訪藩の物頭《ものがしら》矢島|伝左衛門《でんざえもん》が九人の従者を引き連れ和田峠|御境目《おさかいめ》の詰方《つめかた》として出張した。手明きの若党、鎗持《やりも》ちの中間《ちゅうげん》、草履取《ぞうりと》り、具足持《ぐそくも》ち、高張持《たかはりも》ちなぞ、なかなかものものしい。それにこの物頭《ものがしら》が馬の口を取る二人の厩《うまや》の者も随行して来た。
「敵はもう近いと思わんけりゃなりません。」
 御使番《おつかいばん》は早馬で城へ注進に行くと言って、馬上からその言葉を残した。あとの人数にも早速《さっそく》出張するようにその言伝《ことづ》てを御使番に頼んで置いて、物頭もまた乗馬で種々《さまざま》な打ち合わせに急いだ。遠い山々は隠れて見えないほどの大降りで、人も馬もぬれながら峠の上を往《い》ったり来たりした。
 物頭はまず峠の内の注連掛《しめかけ》という場所を選び、一手限《ひとてぎ》りにても防戦しうるようそこに防禦《ぼうぎょ》工事を施すことにした。その考えから、彼は人足の徴発を付近の村々に命じて置いた。小役人を連れて地利の見分にも行って来た。注連掛《しめかけ》へは大木を並べ、士居《どい》を築き、鉄砲を備え、人数を伏せることにした。大平《おおだいら》から馬道下の嶮岨《けんそ》な山の上には大木大石を集め、道路には大木を横たえ、急速には通行のできないようにして置いて、敵を間近に引き寄せてから、鉄砲で撃ち立て、大木大石を落としかけたら、たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、物頭はその用意のために雨中を奔走した。手を分けてそれぞれ下知《げじ》を伝えた。それを済ましたころにはもう昼時刻だ。物頭が樋橋《といはし》まで峠を降りて昼飯を認《したた》めていると、追い追いと人足も集まって来た。
 諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張があることを告げた。そのうちに二十八人の番士と十九人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。別に二十九人の銃隊士の出張をも見た。大砲二百目|玉筒《たまづつ》二|挺《ちょう》、百目玉筒二挺、西洋流十一寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋《といはし》上の砥沢口《とざわぐち》というところで防戦のことに城中の評議決定の旨《むね》を物頭に告げた。東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、桟《かけはし》も取り払う、橋々は切り落とす、そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。
 ちょうど松本藩主|松平丹波守《まつだいらたんばのかみ》から派遣せられた三百五十人ばかりの兵は長窪《ながくぼ》の陣地を退いて、東餅屋に集まっている時であった。もともと松本藩の出兵は追討総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》の厳命を拒みかねたので、沿道警備のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩《まつしろはん》も小諸藩《こもろはん》も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨《むね》、重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。早速、物頭《ものがしら》は歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致《いた》した。両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。
 物頭は樋橋《といはし》にいた。五、六百人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。物頭は樋橋下の民家を三軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。松本方の持参した大砲は百目
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