任務に就《つ》いていた。
 諏訪高島の城主諏訪|因幡守《いなばのかみ》は幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦《ぼうぎょ》の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。峠の上にある東餅屋《ひがしもちや》、西餅屋に住む町民らは立ち退《の》きを命ぜられた。


 こんなに周囲の事情が切迫する前、高島城の御留守居《おるすい》は江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速《さっそく》人数を出張させるようにとしてあった。右の峠の内には松本方面への抜け路《みち》もあるから、時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに出兵の手配りをして置いて、中仙道《なかせんどう》はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。
 このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵《むさし》、上野《こうずけ》、下野《しもつけ》、甲斐《かい》、信濃《しなの》の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模《さがみ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》の諸大名まで皆そのお書付を受けた。それはかなり厳重な内容のもので、筑波《つくば》辺に屯集《とんしゅう》した賊徒どものうち甲州路または中仙道《なかせんどう》方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、すみやかに手はずして見かけ次第もらさず討《う》ち取れという意味のことが認《したた》めてあり、万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、それを等閑《なおざり》にしたらきっと御沙汰《ごさた》があるであろうという意味のことも書き添えてあった。同時に、幕府では三河《みかわ》、尾張《おわり》、伊勢《いせ》、近江《おうみ》、若狭《わかさ》、飛騨《ひだ》、伊賀《いが》、越後《えちご》に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、めいめいの領分はもとより、付近までも手はずをして置いて、怪しい者は見かけ次第すみやかに討《う》ち取れと言いつけた。あの湊《みなと》での合戦《かっせん》以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》は追討総督として浪士らのあとを追って来た。幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、大きな網を諸国に張って、一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々《さまざま》な風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意《こころ》にかけるものもなかった。初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、真偽のほどは不確実《ふたしか》で、なお相去ること数十里の隔たりがあった。諏訪藩ではまだまだ心を許していた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久《さく》へ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。にわかに城内では評定《ひょうじょう》があった。あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、沿道の諸藩が討《う》とうとしないのは無理もない、これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、後方《うしろ》から鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、そんなことも言った。しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦《ほしいまま》にさせて置けないと言うものがあり、大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月《もちづき》まで到着したとの知らせがあって見ると、大砲十五門、騎馬武者百五十人、歩兵七百余、旌旗《せいき》から輜重駄馬《しちょうだば》までがそれに称《かな》っているとの風評には一藩のものは皆顔色を失ってしまった。その時、用人の塩原彦七《しおばらひこしち》が進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋《といはし》というところは、谷川を前にし、後方《うしろ》に丘陵を負い、昔時《むかし》の諏訪頼重《すわよりしげ》が古戦場でもある。高島城から三里ほどの距離にある。当方より進ん
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