たの立場を思い、飯田藩の立場を思いまして、及ばずながら斡旋《あっせん》の労を執りたい考えで同道してまいりました。わたしたちは三人とも平田|篤胤《あつたね》の門人です。」
浪士らの幹部の前には、そういうめずらしい人たちがあらわれた。そのうちの一人《ひとり》は伊那座光寺《いなざこうじ》にある熱心な国学の鼓吹者《こすいしゃ》仲間で、北原稲雄が弟の今村豊三郎《いまむらとよさぶろう》である。一人は将軍最初の上洛《じょうらく》に先立って足利尊氏《あしかがたかうじ》が木像の首を三条河原《さんじょうがわら》に晒《さら》した示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香《くれたまさか》である。
入り込んで来る間諜《かんちょう》を警戒する際で、浪士側では容易にこの三人を信じなかった。その時応接に出たのは道中|掛《がか》りの田村宇之助《たむらうのすけ》であったが、字之助は思いついたように尋ねた。
「念のためにうかがいますが、伊那の平田御門人は『古史伝』の発行を企てているように聞いています。あれは何巻まで行ったでしょうか。」
「そのことですか。今じゃ第四|帙《ちつ》まで進行しております。一帙四巻としてありますが、もう第十六の巻《まき》を出しました。お聞き及びかどうか知りませんが、その上木《じょうぼく》を思い立ったのは座光寺の北原稲雄です。これにおります今村豊三郎の兄に当たります。」正香が答えた。
こんなことから浪士らの疑いは解けた。そこへ三人が持ち出して、及ばずながら斡旋の労を執りたいというは、浪士らに間道の通過を勧め、飯田藩との衝突を避けさせたいということだった。正香や豊三郎は一応浪士らの意向を探りにやって来たのだ。もとより浪士側でも戦いを好むものではない。飯田藩を傷つけずに済み、また浪士側も傷つかずに済むようなこの提案に不賛成のあろうはずもない。異議なし。それを聞いた三人は座光寺の方に待っている北原稲雄へもこの情報を伝え、飯田藩ともよく交渉を重ねて来ると言って、大急ぎで帰って行った。
二十三日には浪士らは片桐《かたぎり》まで動いた。その辺から飯田へかけての谷間《たにあい》には、数十の郷村が天龍川の両岸に散布している。岩崎|長世《ながよ》、北原稲雄、片桐|春一《しゅんいち》らの中心の人物をはじめ、平田篤胤没後の門人が堅く根を張っているところだ。飯田に、山吹《やまぶき》に、伴野《ともの》に、阿島《あじま》に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原|兄弟《きょうだい》のような人たちがたち上がったのに不思議もない。
その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守《ほりいわみのかみ》の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城《ろうじょう》の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。
夜、武田《たけだ》本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早|駕籠《かご》を急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田《ふじた》小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対し憚《はばか》るところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件が認《したた》めてあった。
一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
二、間道に修繕を加うること。
三、飯田町にて軍資金三千両を醵出《きょしゅつ》すること。
「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、鎗《やり》をかついで供をいたせ。」
「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう。」
「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす。」
上伊那の沢渡村《さわどむら》という方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿《しんがり》のものもあった。
いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊《せんぽうたい》のうちにはすでに駒場《こまば》泊まりで出かけるものもある。
後殿《しんがり》の浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ二十六、七の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。
「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。
「わたくしですか。諏訪飯島村《すわいいじまむら
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