きところではなかった。
「長居は無用だ。」
 そう考えるのは、ひとり用心深い平助ばかりではなかったのだ。
 しかし、郷里の方の空も心にかかって、三人の庄屋がそこそこに江戸を引き揚げようとしたのは、彼らの滞在が六月から十月まで長引いたためばかりでもなかったのである。出発の前日、筑波《つくば》の方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさを東片町の屋敷から聞き込んで来たものもあったからで。
 出発の日には、半蔵はすでに十一屋の方に移って、同行の庄屋たちとも一緒になっていたが、そのまま江戸をたって行くに忍びなかった。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで朝早く両国の旅籠屋《はたごや》を出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋《わらじ》の跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行って見た。青い河内木綿《かわちもめん》の合羽《かっぱ》に脚絆《きゃはん》をつけたままで門口から訪れる半蔵の道中姿を見つけると、小娘のお三輪は多吉やお隅《すみ》を呼んだ。
「オヤ、もうお立ちですか。すっかりおしたくもできましたね。」
 と言うお隅のあとから、多吉もそこへ挨拶《あいさつ》に来る。その時、多吉はお隅に言いつけて、紺木綿の切れの編みまぜてある二足の草鞋を奥から持って来させた。それを餞別《せんべつ》のしるしにと言って、風呂敷包《ふろしきづつ》みにして半蔵の前に出した。
「これは何よりのものをいただいて、ありがたい。」
「いえ、お邪魔かもしれませんが、道中でおはきください。それでも宅が心がけまして、わざわざ造らせたものですよ。」
「多吉さんは多吉さんらしいものをくださる。」
 あわただしい中にも、半蔵は相生町の家の人とこんな言葉をかわした。
 多吉は別れを惜しんで、せめて十一屋までは見送ろうと言った。暇乞《いとまご》いして行く半蔵の後ろから、尻端《しりはし》を折りながら追いかけて来た。
「青山さん、あなたの荷物は。」
「荷物ですか。きのうのうちに馬が頼んであります。」
「それにしても、早いお立ちですね。実は吾家《うち》から立っていただきたいと思って、お隅ともその話をしていたんですけれど、連れがありなさるんじゃしかたがない。この次ぎ、江戸へお出かけになるおりもありましたら、ぜひお訪《たず》ねください。お宿はいつでもいたしますよ。」
「さあ、いつまた出かけて来られますかさ。」
「ほんとに、これも何かの御縁かと思いますね。」
 両国十一屋の方には、幸兵衛、平助の二人《ふたり》がもう草鞋《わらじ》まではいて、半蔵を待ち受けていた。頼んで置いた馬も来た。その日はお茶壺《ちゃつぼ》の御通行があるとかで、なるべく朝のうちに出発しなければならなかった。半蔵は大小二|荷《か》の旅の荷物を引きまとめ、そのうち一つは琉球《りゅうきゅう》の莚包《こもづつ》みにして、同行の庄屋たちと共に馬荷に付き添いながら板橋経由で木曾街道の方面に向かった。

       四

 四月以来、筑波《つくば》の方に集合していた水戸の尊攘派《そんじょうは》の志士は、九月下旬になって那珂湊《なかみなと》に移り、そこにある味方の軍勢と合体して、幕府方の援助を得た水戸の佐幕党《さばくとう》と戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。力尽きて幕府方に降《くだ》るものが続出した。二十三日まで湊をささえていた筑波勢は、館山《たてやま》に拠《よ》っていた味方の軍勢と合流し、一筋の血路を西に求めるために囲みを突いて出た。この水戸浪士の動きかけた方向は、まさしく上州路《じょうしゅうじ》から信州路に当たっていたのである。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
 筑波の空に揚がった高い烽火《のろし》は西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いに振《ふる》ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中《あんどうろうじゅう》要撃の以前にも当たる。東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。
 湊《みなと》を出て西に向かった水戸浪士は、石神村《いしがみむら》を通過して、久慈郡大子村《くじごおりだいごむら》をさして進んだが、討手《うって》の軍勢もそれをささえることはできなかった。それから月折峠《つきおれとうげ》に一戦し、那須《なす》の雲巌寺《うんがんじ》に宿泊して、上州路に向かった。
 この一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学
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