んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公《れっこう》)が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島《かごしま》の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない。
寺がある。付近は子供らの遊び場処である。寺には閻魔《えんま》大王の木像が置いてある。その大王の目がぎらぎら光るので、子供心にもそれを水晶であると考え、得がたい宝石を欲《ほ》しさのあまり盗み取るつもりで、昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人《ひとり》の子供がある。木像に近よると、子供のことで手が届かない。閻魔王の膝《ひざ》に上り、短刀を抜いてその目をえぐり取り、莫大《ばくだい》な分捕《ぶんど》り品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。あとになってガラスだと知れた時は、いまいましくなってその大王の目を捨ててしまったという。これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。
森がある。神社の鳥居がある。昼でも暗い社頭の境内がある。何げなくその境内を行き過ぎようとして、小僧待て、と声をかけられた一人の少年がある。見ると、神社の祭礼のおりに、服装のみすぼらしい浪人とあなどって、腕白盛《わんぱくざか》りのいたずらから多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこにたたずんでいる。浪人は一人ぽっちの旅烏《たびがらす》なので、祭りのおりには知らぬ顔で通り過ぎたが、その時は少年の素通りを許さなかった。よくも悪口雑言《あっこうぞうごん》を吐いて祭りの日に自分を辱《はずか》しめたと言って、一人と一人で勝負をするから、その覚悟をしろと言いながら、刀の柄《つか》に手をかけた。少年も負けてはいない。かねてから勝負の時には第一撃に敵を斬《き》ってしまわねば勝てるものではない、それには互いに抜き合って身構えてからではおそい。抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、日ごろ親から言われていた少年のことだ。居合《いあい》の心得は充分ある。よし、とばかり刀の下《さ》げ緒《お》をとって襷《たすき》にかけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取りながら先方の浪人を見ると、その身構えがまるで素人《しろうと》だ。掛け声勇ましくこちらは飛び込んで行った。抜き打ちに敵の小手《こて》に斬りつけた。あいにくと少年のことで、一尺八寸ばかりの小脇差《こわきざし》しか差していない。その尖端《せんたん》が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人は踵《きびす》を反《かえ》して、一目散に逃げ出した。こちらもびっくりして、抜き身の刀を肩にかつぎながら、あとも見ずに逃げ出して帰ったという。これがわずかに十六歳ばかりの当時の水戸の少年だ。
二階がある。座敷がある。酒が置いてある。その酒楼の二階座敷の手摺《てすり》には、鎗《やり》ぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の鎗がある。町奉行のために、不逞《ふてい》の徒の集まるものとにらまれて、包囲せられた二人《ふたり》の侍がそこにある。なんらの罪を犯した覚えもないのに、これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向かって来たものに尋ねると、それは自分らの知った事ではない。足下《そっか》らを引致《いんち》するのが役目であるとの答えだ。しからば同行しようと言って、数人に護《まも》られながら厠《かわや》にはいった時、一人の侍は懐中の書類をことごとく壺《つぼ》の中に捨て、刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、それから身軽になって連れの侍と共に引き立てられた。罪人を乗せる網の乗り物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。厳重な取り調べがあった。証拠となるべきものはなかったが、二人とも小人目付《こびとめつけ》に引き渡された。ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖《りょうしゅう》市川三左衛門《いちかわさんざえもん》が得意の時代で、尊攘派征伐のために筑波《つくば》出陣の日を迎えた。邸内は雑沓《ざっとう》して、侍たちについた番兵もわずかに二人のみであった。夕方が来た。囚《とら》われとなった連れの侍は仲間にささやいて言う。自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、もしこのままにいたら斬《き》られることは確かである、彼らのために死ぬよりもむしろ番兵を斬りたおして逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、どうだと。それを聞いた一人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、同じ囚われの身でありながら、行動を共にしないのは武士のなすべきことでないとの考えから、その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。待て、番士に何の罪もない、これを斬るはよろしくない、一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。聞くところによると水府は今非常な混乱に陥っている、これは国家危急の秋《とき》
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