ろで、早く国の方へ引き揚げるんですね――長居は無用ですよ。」
平助は平助らしいことを言った。
ともかくも、地方の事情を直接に道中奉行の耳に入れただけでも、十一宿総代として江戸へ呼び出された勤めは果たした。請書《うけしょ》は出した。今度は帰りじたくだ。半蔵らは東片町にある山村氏の屋敷から一時旅費の融通《ゆうずう》をしてもらって、長い逗留《とうりゅう》の間に不足して来た一切の支払いを済ませることにした。ところが、東片町には何かの機会に一|盃《ぱい》やりたい人たちがそろっていて、十一宿の願書が首尾よく納まったと聞くからには、とりあえず祝おう、そんなことを先方から切り出した。江戸詰めの侍たちは、目立たないところに料理屋を見立てることから、酒を置き、芸妓《げいぎ》を呼ぶことまで、その辺は慣れたものだ。半蔵とてもその席に一座して交際|上手《じょうず》な人たちから祝盃《しゅくはい》をさされて見ると、それを受けないわけに行かなかったが、宿方の用事で出て来ている身には酒も咽喉《のど》を通らなかった。その日は酒盛《さかも》り最中に十月ももはや二十日過ぎらしい雨がやって来た[#「やって来た」は底本では「やった来た」]。一座六人の中には、よいきげんになっても、まだ飲み足りないという人もいた。二軒も梯子《はしご》で飲み歩いて、無事に屋敷へ帰ったかもわからないような大|酩酊《めいてい》の人もいた。
間もなく相生町《あいおいちょう》の二階で半蔵が送る終《つい》の晩も来た。出発の前日には十一屋の方へ移って他の庄屋とも一緒になる約束であったからで。その晩は江戸出府以来のことが胸に集まって来て、実に不用な雑費のみかさんだことを考え、宿方総代としてのこころざしも思うように届かなかったことを考えると、彼は眠られなかった。階下《した》でも多吉夫婦がおそくまで起きていると見えて、二人《ふたり》の話し声がぼそぼそ聞こえる。彼は枕《まくら》の上で、郷里の方の街道を胸に浮かべた。去る天保四年、同じく七年の再度の凶年で、村民が死亡したり離散したりしたために、馬籠《まごめ》のごとき峠の上の小駅ではお定めの人足二十五人を集めるにさえも、隣郷の山口村や湯舟沢村の加勢に待たねばならないことを思い出した。駅長としての彼が世話する宿駅の地勢を言って見るなら、上りは十曲峠《じっきょくとうげ》、下りは馬籠峠、大雨でも降れば道は河原のようになって、おまけに土は赤土と来ているから、嶮岨《けんそ》な道筋での継立《つぎた》ても人馬共に容易でないことを思い出した。冬春の雪道、あるいは凍り道などのおりはことに荷物の運搬も困難で、宿方役人どもをはじめ、伝馬役《てんまやく》、歩行役、七里役等の辛労は言葉にも尽くされないもののあることを思い出した。病み馬、疲れ馬のできるのも無理のないことを思い出した。郷里の方にいる時こそ、宿方と助郷村々との利害の衝突も感じられるようなものだが、遠く江戸へ離れて来て見ると、街道筋での奉公には皆同じように熱い汗を流していることを思い出した。彼は郷里の街道のことを考え、江戸を見た目でもう一度あの宿場を見うる日のことを考え、そこに働く人たちと共に武家の奉公を忍耐しようとした。
徳川幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》し、あわせてこの不景気のどん底から江戸を救おうとするような参覲交代《さんきんこうたい》の復活は、半蔵らが出発以前にすでに触れ出された。
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一、万石《まんごく》以上の面々ならびに交代寄合《こうたいよりあい》、参覲の年割《ねんわ》り御猶予成し下され候《そうろう》旨《むね》、去々|戌年《いぬどし》仰せ出《いだ》され候ところ、深き思《おぼ》し召しもあらせられ候につき、向後《こうご》は前々《まえまえ》お定めの割合に相心得《あいこころえ》、参覲交代これあるべき旨、仰せ出さる。
一、万石以上の面々ならびに交代寄合、その嫡子在国しかつ妻子国もとへ引き取り候とも勝手たるべき次第の旨、去々戌年仰せ出され、めいめい国もとへ引き取り候面々もこれあり候ところ、このたび御進発も遊ばされ候については、深き思し召しあらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。
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このお触れ書の中に「御進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。尾張大納言《おわりだいなごん》を総督にする長州征討軍の進発をさす。
三人の庄屋には、道中奉行から江戸に呼び出され、諸大名通行の難関たる木曾地方の事情を問いただされ、たとい一時的の応急策たりとも宿駅補助のお手当てを下付された意味が、このお触れ書の発表で一層はっきりした。
江戸は、三人の庄屋にとって、もはやぐずぐずしているべ
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