ようになった。
よく見れば、この頽廃《たいはい》と、精神の無秩序との中にも、ただただその日その日の刺激を求めて明日《あす》のことも考えずに生きているような人たちばかりが決して江戸の人ではなかった。相生町のかみさんのように、婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかった名もない町人の妻ですら、世の移り変わりを舞台の上にながめ、ふとした場面から時の感じを誘われると、人の泣かないようなことに泣けてしかたがないとさえ言っている。うっかり連中の仲間入りをして芝居見物には出かけられないと言っている。
当時の武士でないものは人間でないような封建社会に、従順ではあるが決して屈してはいない町人をそう遠いところに求めるまでもなく、高い権威ぐらいに畏《おそ》れないものは半蔵のすぐそばにもいた。背は高く、色は白く、目の光も強く生まれついたかわりに、白粉《おしろい》一つつけたこともなくて、せっせと台所に働いているような相生町の家のかみさんには、こんな話もある。彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越《かわごえ》の方に暮らしていたころのことだ。当時、お国替《くにが》えの藩主を迎えた川越藩では、きびしいお触れを町家に回して、藩の侍に酒を売ることを禁じた。百姓町人に対しては実にいばったものだという川越藩の新しい侍の中には、長い脇差《わきざし》を腰にぶちこんで、ある日の宵《よい》の口ひそかに多吉が家の店先に立つものがあった。ちょうど多吉は番頭を相手に、その店先で将棋をさしていた。いきなり抜き身の刀を突きつけて酒を売れという侍を見ると、多吉も番頭もびっくりして、奥へ逃げ込んでしまった。そのころのお隅《すみ》は十八の若さであったが、侍の前に出て、すごい権幕《けんまく》をもおそれずにきっぱりと断わった。先方は怒《おこ》るまいことか。そこへ店の小僧が運んで来た行燈《あんどん》をぶち斬《き》って見せ、店先の畳にぐざと刀を突き立て、それを十文字に切り裂いて、これでも酒を売れないかと威《おど》しにかかった。なんと言われても城主の厳禁をまげることはできないとお隅が答えた時に、その侍は彼女の顔をながめながら、「そちは、何者の娘か」と言って、やがて立ち去ったという話もある。
「江戸はどうなるでしょう。」
半蔵は十一屋の二階の方に平助を見に行った時、腹下しの気味で寝ている連れの庄屋にそれを言った。平助は半蔵の顔を見ると、旅の枕《まくら》もとに置いてある児童の読本《よみほん》でも読んでくれと言った。幸兵衛も長い滞在に疲れたかして、そのそばに毛深い足を投げ出していた。
ようやく十月の下旬にはいって、三人の庄屋は道中奉行からの呼び出しを受けた。都筑駿河《つづきするが》の役宅には例の徒士目付《かちめつけ》が三人を待ち受けていて、しばらく一室に控えさせた後、訴え所《じょ》の方へ呼び込んだ。
「ただいま駿河守は登城中であるから、自分が代理としてこれを申し渡す。」
この挨拶《あいさつ》が公用人からあって、十一宿総代のものは一通の書付を読み聞かせられた。それには、定助郷《じょうすけごう》嘆願の趣ももっともには聞こえるが、よくよく村方の原簿をお糺《ただ》しの上でないと、容易には仰せ付けがたいとある。元来定助郷は宿駅の常備人馬を補充するために、最寄《もよ》りの村々へ正人馬勤《しょうじんばづと》めを申し付けるの趣意であるから、宿駅への距離の関係をよくよく調査した上でないと、定助郷の意味もないとある。しかし三人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるから、十一宿救助のお手当てとして一宿につき金三百両ずつを下し置かれるとある。ただし、右はお回《まわ》し金《きん》として、その利息にて年々各宿の不足を補うように心得よともある。別に、三人は請書《うけしょ》を出せと言わるる三通の書付をも公用人から受け取った。それには十一宿あてのお救いお手当て金下付のことが認《したた》めてあって、駿河《するが》佐渡《さど》二奉行の署名もしてある。
木曾地方における街道付近の助郷が組織を完備したいとの願いは、ついにきき入れられなかった。三人の庄屋は定助郷設置のかわりに、そのお手当てを許されただけにも満足しなければならなかった。その時、庄屋方から差し出してあった人馬立辻帳《じんばたてつじちょう》、宿勘定仕訳帳等の返却を受けて、そんなことで屋敷から引き取った。
「どうも、こんな膏薬《こうやく》をはるようなやり方じゃ、これから先のことも心配です。」
両国の十一屋まで三人一緒に戻《もど》って来た時、半蔵はそれを言い出したが、心中の失望は隠せなかった。
「半蔵さんはまだ若い。」と幸兵衛は言った。「まるきりお役人に誠意のないものなら、一|文《もん》だってお手当てなぞの下がるもんじゃありません。」
「まあ、まあ、これくらいのとこ
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