木和泉らのような人たちも、もはやこの世にいなかった。生前幕府の軟弱な態度を攻撃することに力をそそぎ、横浜|鎖港《さこう》の談判にも海外使節の派遣にもなんら誠意の見るべきものがないとし、将軍の名によって公布された幕府の攘夷もその実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。
これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は豊前《ぶぜん》田《た》の浦《うら》におけるアメリカ商船の砲撃を手始めとして、下《しも》の関《せき》海峡を通過する仏国軍艦や伊国軍艦の砲撃となり、その結果長州では十八隻から成る英米仏蘭四国連合艦隊の来襲を受くるに至った。長州の諸砲台は多く破壊せられ、長藩はことごとく撃退せられ、下の関の市街もまたまさに占領せらるるばかりの苦《にが》い経験をなめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。開港か、攘夷か。それは四|艘《そう》の黒船が浦賀の久里《くり》が浜《はま》の沖合いにあらわれてから以来の問題である。国の上下をあげてどれほど深刻な動揺と狼狽《ろうばい》と混乱とを経験して来たかしれない問題である。一方に攘夷派を頑迷《がんめい》とののしる声があれば、一方に開港派を国賊とののしり返す声があって、そのためにどれほどの犠牲者を出したかもしれない問題である。英米仏蘭四国を相手の苦い経験を下の関になめるまで、攘夷のできるものと信じていた人たちはまだまだこの国に少なくなかった。好《よ》かれ悪《あ》しかれ、実際に行なって見て、初めてその意味を悟ったのは、ひとり長州地方の人たちのみではなかった。その時になって見ると、全国を通じてあれほどやかましかった多年の排外熱も、ようやく行くところまで行き尽くしたかと思わせる。
三
とうとう、半蔵は他の庄屋たちと共に、道中奉行からの沙汰《さた》を九月末まで待った。奉行から話のあった仕訳書上帳《しわけかきあげちょう》の郷里から届いたのも差し出してあり、木曾十一宿総代として願書も差し出してあって、半蔵らはかわるがわる神田橋《かんだばし》外の屋敷へ足を運んだが、そのたびに今すこし待て、今すこし待てと言われるばかり。両国十一屋に滞在する平助も、幸兵衛もしびれを切らしてしまった。こんな場合に金を使ったら、尾州あたりの留守居役を通しても、もっとてきぱき運ぶ方法がありはしないかなどと謎《なぞ》をかけるものがある。そんな無責任な人の言うことが一層半蔵をさびしがらせた。
「さぞ、御退屈でしょう。」
と言って相生町《あいおいちょう》の家の亭主《ていしゅ》が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階に置いてもらううちに、半蔵はこの人を多吉さんと呼び、かみさんをお隅《すみ》さんと呼び、清元《きよもと》のけいこに通《かよ》っている小娘のことをお三輪《みわ》さんと呼ぶほどの親しみを持つようになった。
「青山さん、宅じゃこんな勤めをしていますが、たまにお暇《ひま》をもらいまして、運座《うんざ》へ出かけるのが何よりの楽しみなんですよ。ごらんなさい、わたしどもの家には白い団扇《うちわ》が一本も残っていません。一夏もたって見ますと、どの団扇にも宅の発句《ほっく》が書き散らしてあるんですよ。」
お隅がそれを半蔵に言って見せると、多吉は苦笑《にがわら》いして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。
筑波《つくば》の騒動以来、関東の平野の空も戦塵《せんじん》におおわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧《はいかい》の道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越《かわごえ》で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲《かよく》と商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾《のれん》も畳《たた》まねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋《わらじ》ばき尻端折《しりはしょ》りになって「おすみ団子《だんご》」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫《おっと》を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気《けなげ》な婦人だ。
そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のお粂《くめ》を思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行く
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