衛や平助と一緒になり、さらに三人連れだって殺気のあふれた町々を浅草橋の見附《みつけ》から筋違《すじかい》の見附まで歩いて行って見たのは二十三日のことであったが、そこに人だかりのする高札場《こうさつば》にはすでに長州征伐のお触《ふ》れ書《しょ》が掲げられていた。
七月二十九日はちょうど二百十日の前日にあたる。半蔵は他の二人《ふたり》の庄屋と共に、もっと京都の方の事実を確かめたいつもりで、東片町《ひがしかたまち》の屋敷に木曾福島の山村氏が家中衆を訪《たず》ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なるものを仰せ付けられた人があって、その前夜にわかに屋敷を出立したという騒ぎだ。京都合戦の真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋のお留守居からそこに届いていて、長州方の敗北となったこともわかった。
その時になって見ると、長州征伐の命令が下ったばかりでなく、松平大膳太夫《まつだいらだいぜんのだゆう》ならびに長門守《ながとのかみ》は官位を剥《は》がれ、幕府より与えられた松平姓と将軍家|御諱《おんいみな》の一字をも召し上げられた。長防両国への物貨輸送は諸街道を通じてすでに堅く禁ぜられていた。
ある朝、暁《あけ》の七つ時とも思われるころ。半蔵は本所相生町《ほんじょあいおいちょう》の家の二階に目をさまして、半鐘の音を枕《まくら》の上で聞いた。火事かと思って、彼は起き出した。まず二階の雨戸を繰って見ると、別に煙らしいものも目に映らない。そのうちに寝衣《ねまき》のままで下から梯子段《はしごだん》をのぼって来たのはその家の亭主《ていしゅ》多吉だ。
「火事はどこでございましょう。」
という亭主と一緒に、半蔵はその二階から物干し場に登った。家々の屋根がそこから見渡される。付近に火の見のある家は、高い屋根の上に登って、町の空に火の手の揚がる方角を見さだめようとするものもある。
「青山さん、表が騒がしゅうございますよ。」
と下から呼ぶ多吉がかみさんの声もする。半蔵と亭主はそれを聞きつけて、二階から降りて見た。
多くの人は両国橋の方角をさして走った。半蔵らが橋の畔《たもと》まで急いで行って見た時は、本所方面からの鳶《とび》の者の群れが刺子《さしこ》の半天に猫頭巾《ねこずきん》で、手に手に鳶口《とびぐち》を携えながら甲高《かんだか》い叫び声を揚げて繰り出して来ていた。組の纏《まとい》が動いて行ったあとには、消防用の梯子《はしご》が続いた。革羽織《かわばおり》、兜頭巾《かぶとずきん》の火事|装束《しょうぞく》をした人たちはそれらの火消し人足を引きつれて半蔵らの目の前を通り過ぎた。
長州屋敷の打ち壊《こわ》しが始まったのだ。幕府はおのれにそむくものに対してその手段に出た。江戸じゅうの火消し人足が集められて、まず日比谷《ひびや》にある毛利家《もうりけ》の上屋敷が破壊された。かねて長州方ではこの事のあるのを予期してか、あるいは江戸を見捨てるの意味よりか、先年諸大名の家族が江戸屋敷から解放されて国勝手《くにがって》の命令が出たおりに、日比谷にある長州の上屋敷では表奥《おもておく》の諸殿を取り払ったから、打ち壊されたのは四方の長屋のみであった。麻布龍土町《あざぶりゅうどちょう》の中屋敷、俗に長州の檜屋敷《ひのきやしき》と呼ぶ方にはまだ土蔵が二十か所もあって、広大な建物も残っていた。打ち壊しはそこでも始まった。大きな柱は鋸《のこぎり》や斧《おの》で伐《き》られ、それに大綱を鯱巻《しゃちま》きにして引きつぶされた。諸道具諸書物の類《たぐい》は越中島で焼き捨てられ、毛利家の定紋《じょうもん》のついた品はことごとくふみにじられた。
やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便《たよ》りが、両国|米沢町《よねざわちょう》十一屋あてで、半蔵のもとに届くようになった。あの年上の友人が安否のほども気づかわれていた時だ。彼は十一屋からそれを受け取って来て、相生町の二階でひらいて見た。
とりあえず彼はその手紙に目を通して、あの友人も無事、師|鉄胤《かねたね》も無事、京都にある平田同門の人たちのうち下京《しもぎょう》方面のものは焼け出されたが幸いに皆無事とあるのを確かめた。さらに彼は繰り返し読んで見た。
相変わらず景蔵の手紙はこまかい。過ぐる年の八月十七日の政変に、王室回復の志を抱《いだ》く公卿《くげ》たち、および尊攘派《そんじょうは》の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のあるのは不思議もないとして、七月十九日前後の消息を伝えてある。
池田屋の変は六月五日の早暁のことであった。守護職、所司代《しょしだい》、および新撰組《しんせんぐみ》の兵はそこに集まる諸藩の志士二十余名を捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津《あいづ
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