とを一時の浮沈《うきしずみ》ぐらいで一口に言ってしまいたくなかった。ただあの旧師が近く中津川を去って、伊勢《いせ》の方に晩年を送ろうとしている人であることをうわさするにとどめていた。
「横浜貿易と言えば、あれにはずいぶん祟《たた》られた人がある。」と言うのは平助だ。「中津川あたりには太田の陣屋へ呼び出されて、尾州藩から閉門を仰せ付けられた商人もあるなんて、そんな話じゃありませんか。お灸《きゅう》だ。もうけ過ぎるからでさ。」
「万屋《よろずや》さんもどうなすったでしょう。」と隠居が言う。
「万屋さんですか。」と半蔵は受けて、「あの人はぐずぐずしてやしません。横浜の商売も生糸《きいと》の相場が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度は京都の方へ目をつけています。今じゃ上方《かみがた》へどんどん生糸の荷を送っているでしょうよ。」
「どうも美濃《みの》の商人にあっちゃ、かなわない。中津川あたりにはなかなか勇敢な人がいますね。」と平助が言って見せる。
「宮川先生で思い出しました。」と隠居は言った。「手前が喜多村瑞見《きたむらずいけん》というかたのお供をして、一度神奈川の牡丹屋《ぼたんや》にお訪《たず》ねしたことがございました。青山さんは御存じないかもしれませんが、この喜多村先生がまた変わり物と来てる。元は幕府の奥詰《おくづめ》のお医者様ですが、開港当時の函館《はこだて》の方へ行って長いこと勤めていらっしゃるうちに、士分に取り立てられて、間もなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校《しょうへいこう》の頭取《とうどり》から御目付(監察)に出世なすった。外交|掛《がか》りを勤めておいでですが、あの調子で行きますと今に外国奉行でしょう。手前もこんな旅籠屋渡世《はたごやとせい》をして見ていますが、あんなに出世をなすったかたもめずらしゅうございます。」
「徳川幕府に人がないでもありませんかね。」
この平助のトボケた調子に、隠居も笑い出した、外国貿易に、開港の結果に、それにつながる多くの人の浮沈《うきしずみ》に、聞いている半蔵には心にかかることばかりであった。
その日から、半蔵は両国橋の往《い》き還《かえ》りに筑波山《つくばさん》を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵《せんじん》におおわれて来たことは、それだけでも役人たちの心を奪い、お役所の事務を滞らせ、したがって自分らの江戸滞在を長引かせることを恐れた。時には九十六|間《けん》からある長い橋の上に立って、木造の欄干に倚《よ》りかかりながら丑寅《うしとら》の方角に青く光る遠い山を望んだ。どんな暑苦しい日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川《すみだがわ》も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯《たくわ》え、どれほどの御家人旗本を養うためにあるかと見えるような御蔵《おくら》の位置はもとより、両岸にある形勝の地のほとんど大部分も武家のお下屋敷で占められている。おそらく百本杭《ひゃっぽんぐい》は河水の氾濫《はんらん》からこの河岸《かし》や橋梁《きょうりょう》を防ぐ工事の一つであろうが、大川橋(今の吾妻橋《あずまばし》)の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦《うず》巻き流れて来ていた。
三人の庄屋が今度の江戸出府を機会に嘆願を持ち出したのは、理由のないことでもない。早い話が参覲交代制度の廃止は上から余儀なくされたばかりでなく、下からも余儀なくされたものである。たといその制度の復活が幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が旧のままであったら、そのために苦しむものは地方の人民であったからで。
しかし、道中奉行の協議中、協議中で、庄屋側からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社《さんのうしゃ》の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院《てんしょういん》や和宮様《かずのみやさま》と共に新たに土木の落成した江戸城西丸へ田安御殿《たやすごてん》の方から移るころまで待った。
七月の二十日ごろまで待つうちに、さらに半蔵らの旅を困難にすることが起こった。
「長州様がいよいよ御謀反《ごむほん》だそうな。」
そのうわさは人の口から口へと伝わって行くようになった。早乗りの駕籠《かご》は毎日|幾立《いくたて》となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒《おおづつ》鉄砲から移った火で洛中《らくちゅう》の町家の大半は焼け失《う》せたとのうわさをすら伝えた。半蔵が十一屋まで行って幸兵
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