た相生町の家は、十一屋からもそう遠くない。回向院《えこういん》から東にあたる位置で、一つ目の橋の近くだ。そこには親子三人暮らしの気の置けない家族が住む。亭主《ていしゅ》多吉《たきち》は深川《ふかがわ》の米問屋へ帳付けに通《かよ》っているような人で、付近には名のある相撲《すもう》の関取《せきとり》も住むような町中であった。早速《さっそく》平助は十一屋のあるところから両国橋を渡って、その家に半蔵を訪《たず》ねて来た。
「これはよい家が見つかりましたね。」
 平助は半蔵と一緒にその二階に上がってから言った。夏は二階の部屋《へや》も暑いとされているが、ここは思ったより風通しもよい。西に窓もある。しばらく二人はそんなことを語り合った。
「時に、半蔵さん。」と平助が言い出した。「どうもお役所の仕事は長い。去年木曾[#「木曾」は底本では「木曽」]から総代が出て来た時は、あれは四月の末でした。それが今年《ことし》の正月までかかりました。今度もわたしは長いと見た。」
「まったく、近ごろは道中奉行の交代も頻繁《ひんぱん》ですね。」と半蔵は答える。「せっかく地方の事情に通じた時分には一年か二年で罷《や》めさせられる。あれじゃお役所の仕事も手につかないわけですね。」
「そう言えば、半蔵さん、江戸にはえらい話がありますよ。わたしは山村様のお屋敷にいる人たちから、神奈川奉行の組頭《くみがしら》が捕《つか》まえられた話を聞いて来ましたよ。どうして、君、これは聞き捨てにならない。その人は神奈川奉行の組頭だと言うんですから、ずいぶん身分のある人でしょうね。親類が長州の方にあって、まあ手紙をやったと想《おも》ってごらんなさい。親類へやるくらいですから普通の手紙でしょうが、ふとそれが探偵《たんてい》の手にはいったそうです。まことに穏やかでない御時節がらで、お互いに心配だ、どうか明君賢相が出てなんとか始末をつけてもらいたい、そういうことが書いてあったそうです。それを幕府のお役人が見て、何、天下が騒々しい、これは公方様《くぼうさま》を蔑《ないがし》ろにしたものだ、公方様以外に明君が出てほしいと言うなら、いわゆる謀反人《むほんにん》だということになって、組頭はすぐにお城の中で捕縛されてしまった。どうも、大変な話じゃありませんか。それから組頭が捕《つか》まえられると同時に家捜《やさが》しをされて、当人はそのまま伝馬町《てんまちょう》に入牢《にゅうろう》さ。なんでもたわいない吟味のあったあとで、組頭は牢中で切腹を申し付けられたと言いますよ。東片町《ひがしかたまち》のお屋敷でその話が出て、皆驚いていましたっけ。組頭の検死に行った御小人目付《おこびとめつけ》を知ってる人もあのお屋敷にありましてね、検死には行ったがまことに気の毒だったと、あとで御小人目付がそう言ったそうです。あの話を聞いたら、なんだかわたしは江戸にいるのが恐ろしくなって来ました。こうして宿方の費用で滞在して、旅籠屋の飯を食ってるのも気が気じゃありません。」
 この平助の言うように、長い旅食《りょしょく》は半蔵にしても心苦しかった。しかし、道中奉行に差し出す諸帳簿の検閲を受け、問わるるままに地方の事情を上申するというだけでは済まされなかった。この江戸出府を機会に、もう一度|定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願を持ち出し、かねての木曾十一宿の申し合わせを貫かないことには、平助にしてもまた半蔵にしても、このまま国へは帰って行かれなかった。
 前年、五人の総代が木曾から出て来た時、何ゆえに一行の嘆願が道中奉行の容《い》れるところとならなかったか。それは、よくよく村柄《むらがら》をお糺《ただ》しの上でなければ、容易に定助郷を仰せ付けがたいとの理由による。しかし、五人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるからと言って、道中奉行は元治元年の二月から向こう六か月を限り、定助郷のかわりに当分助郷を許した。そして木曾下四宿への当分助郷としては伊奈《いな》百十九か村、中三宿へは伊奈九十九か村、上四宿へは筑摩郡《ちくまごおり》八十九か村と安曇郡《あずみごおり》百四十四か村を指定した。このうち遠村で正人馬《しょうじんば》を差し出しかね代永勤《だいえいづと》めの示談に及ぶとしても、一か年高百石につき金五両の割合より余分には触れ当てまいとの約束であった。過ぐる半年近くの半蔵らの経験によると、この新規な当分助郷の村数が驚くばかりに拡大されたことは、かえって以前からの勤め村に人馬の不参を多くするという結果を招いた。これはどうしても前年の総代が嘆願したように、やはり東海道の例にならって定助郷を設置するにかぎる。道中奉行に誠意があるなら、適当な村柄を糺《ただ》されたい、もっと助郷の制度を完備して街道の混乱を防がれたい。もしこの木曾十一宿の願いがいれら
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