がそこへ話し込みに来る。部屋《へや》の片すみに女中の置いて行った古風な行燈《あんどん》からして、堅気《かたぎ》な旅籠屋らしいところだ。
「なんと言っても[#「なんと言っても」は底本では「なんと言っも」]、江戸は江戸ですね。」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の方で蚊帳《かや》売りの声を聞いて来ましたよ。」
「えゝ、蚊帳や蚊帳と、よい声で呼んでまいります。一町も先から呼んで来るのがわかります。あれは越後者《えちごもの》だそうですが、江戸名物の一つでございます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から初めて江戸へ出てまいりました時分のことをよく思い出します。」と隠居が言う。
 幸兵衛も手さげのついた煙草盆《たばこぼん》を引き寄せて、一服吸い付けながらその話を引き取った。「十一屋さん、江戸もずいぶん不景気のようですね。」
「いや、あなた、不景気にも何にも。」と隠居は受けて、「お屋敷方があのとおりでしょう。きのうもあの建具屋の阿爺《おやじ》が見えまして、どこのお屋敷からも仕事が出ない、吾家《うち》の忰《せがれ》なぞは去年の暮れからまるきり遊びです、そう言いまして、こぼし抜いておりました。そんならお前の家の子息《むすこ》は何をしてるッて、手前が言いましたら、することがないから当時流行の剣術のけいこですとさ。だんだん聞いて見ますと、江戸にはちょいちょい火事があるんで、まあ息がつけます、仕事にありつけますなんて、そんなことを言っていましたっけ。ああいう職人にして見たら、それが正直なところかもしれませんね。」
「火事があるんで、息がつけるか。江戸は広い。」と平助はくすくすやる。
「いえ、串談《じょうだん》でなしに。火事は江戸の花――だれがあんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、江戸の人くらい火事をこわがってるものもありませんがね。この節は夏でも火事があるんで、みんな用心しておりますよ。放火、放火――あのうわさはどうでしょう。苦しくなって来ると、それをやりかねないんです。ひどいやつになりますと、樋《とい》を逆さに伏せて、それを軒から軒へ渡して、わざわざ火を呼ぶと言いますよ。」
「全く、これじゃ公方様のお膝元《ひざもと》はひどい。」と幸兵衛は言った。「今度わたしも出て来て見て、そう思いました。この江戸を毎日見ていたら、参覲交代を元通りにしたいと考えるのも無理はないと思いますね。」
 幸兵衛と半蔵とはかなり庄屋気質《しょうやかたぎ》を異にしていた。不思議にも、旅は年齢の相違や立場を忘れさせる。半蔵は宿屋のかみさんが貸してくれた糊《のり》のこわい浴衣《ゆかた》の肌《はだ》ざわりにも旅の心を誘われながら、黙しがちにみんなの話に耳を傾けた。
「どうも、油断のならない世の中になりました。」と隠居は言葉をつづけて、「大店《おおだな》は大店で、仕入れも手控え、手控えのようです。おまけに昼は押し借り、夜は強盗の心配でございましょう。まあ、手前どもにはよくわかりませんが、お屋敷方の御隠居でも若様でも御簾中《ごれんちゅう》でも御帰国御勝手次第というような、そんな御改革はだれがしたなんて、慶喜公を恨んでいるものもございます。あの豚一様《ぶたいちさま》(豚肉を試食したという一橋公の異名)か、何も知らないものは諧謔《ふざけ》半分にそんなことを申しまして、とかく江戸では慶喜公の評判がよくございません……」
 江戸の話は尽きなかった。
 その晩、半蔵はおそくまでかかって、旅籠屋の行燈《あんどん》のかげで郷里の伏見屋伊之助あてに手紙を書いた。町々では夜燈なしに出歩くことを禁ぜられ、木戸木戸は堅く閉ざされた。警察もきびしくなって、その年の四月以来江戸市中に置かれたという邏卒《らそつ》が組の印《しる》しを腰につけながら屯所《たむろしょ》から回って来た。それすら十一屋の隠居のように町に居住するものから言わせれば、実に歯がゆいほどの巡回の仕方で。

       二

 江戸の旅籠屋《はたごや》は公事宿《くじやど》か商人宿のたぐいで、京坂地方のように銀三匁も四匁も宿泊料を取るようなぜいたくを尽くした家はほとんどない。公用商用のためこの都会に集まるものを泊めるのが旨としてあって、家には風呂場《ふろば》も設けず、膳部《ぜんぶ》も台所で出すくらいで、万事が実に質素だ。しかし半蔵が十年前に来て泊まって見たころとは宿賃からして違う。昼食抜きの二百五十文ぐらいでは泊めてくれない。
 道中奉行の意向がわかってから、間もなく半蔵は両国の十一屋を去ることにした。同行の二人《ふたり》の庄屋をそこに残して置いて、自分だけは本所相生町《ほんじょあいおいちょう》の方へ移った。同じ本所に住む平田同門の医者の世話で、その人の懇意にする家の二階に置いてもらうことをしきりに勧められたからで。
 半蔵が移って行っ
前へ 次へ
全109ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング